農協へ野菜を買いに出かけました。
農協のすぐ傍に小学校があってちょうど下校時間でした。
小鳥がさえずるような群が通りかかります。
そのひとつの群を背後から撮しました。

でも、一人の子に気付かれてしまいました。
全員がカメラを意識して歩道橋を登ります。
私は「さようなら」と手を振って写真を撮りました。

あら、見つかってしまった

ほら、みんなこっちを見ている
ふと気付くと、傍らの柵のところで女の子が一人泣いています。
厳密にいうと一人ではなく、写真に映っている矢印の看板の後ろに友だちがひとりいて一生懸命慰めています。

泣きじゃくっている子 看板の向こうに足だけ見える子が慰めている子
どうしたのか心配になって、声をかけようかと思いました。
そのとき二人はくるりと向きを変え、学校の方へ戻りはじめました。
写真には写っていませんが、学校の方には子供たちを送り出した女性の先生の姿が見えました。
そこで安心して引き返しました。
変にお節介を続けると、私が泣かせたように誤解されかねません。
きっとあの子は、すすり上げながら先生に事情を話すのでしょう。
そして先生は適切に対応してくれるでしょう。

学校へ戻っていった 左の子が泣いていて右の子が慰めている
ここには小さなドラマがあります。
きっとしばらくすれば本人も忘れてしまうような些細なドラマかも知れません。
しかし、私たちの生涯は、実はそうした小さなドラマの積み重ねなのではないでしょうか。
トラウマなどという言葉があり、それはこうしたドラマの中で、とくに衝撃的で記憶に深く、しかもそれと分からぬうちに刻み込まれたものだといいます。
でもどうなんでしょう。決して衝撃的でもなく、深く刻み込まれなくとも、こうしたドラマの繰り返しや積み重ねが私たちの今を総体として形作っているようにも思えるのです。
よく、「私のトラウマはね・・・」といったりする人がいます。
日常の会話の中のことですから目くじらを立てて言いつのることもないのですが、それはトラウマではないと思います。厳密に言えばトラウマとは、そのように情景を描写し言葉に出来るものではないと思うのです。それが可能なものは、すでに経験として自分の歴史に織り込み済みで、それによる「不可避の」事態が発生したりはしないのです。
ですから、本当のトラウマとは、それとして自覚もされず、むしろ記憶の底に押さえつけられていて、したがって言葉として話すことも出来ない経験、にもかかわらず、その人の言動に作用し、「不可避の」事態をもたらしたりするもののようです。
とまあ、以上はある心理学上の立場の受け売りにしか過ぎません。
私のいいたかったことは、そうしたトラウマ支配説はともかく、私が目撃したような小さなドラマが蓄積されて私たちを作っているのではないかということです。
正直いうと、泣きじゃくっている子とそれを慰めながら学校の方へ戻って行く二人の後ろ姿に少しばかり感動を覚えたのです。
何となく、この二人は終生の友だちになるような予感がしました。
ふと思い出した童謡です。タイトルは「仲よし小道」です。
♪仲よし小道は どこの道
いつも学校へ みよちゃんと
ランドセル背負(しょ)って元気よく
お歌をうたって 通(かよ)う道
農協のすぐ傍に小学校があってちょうど下校時間でした。
小鳥がさえずるような群が通りかかります。
そのひとつの群を背後から撮しました。

でも、一人の子に気付かれてしまいました。
全員がカメラを意識して歩道橋を登ります。
私は「さようなら」と手を振って写真を撮りました。

あら、見つかってしまった

ほら、みんなこっちを見ている
ふと気付くと、傍らの柵のところで女の子が一人泣いています。
厳密にいうと一人ではなく、写真に映っている矢印の看板の後ろに友だちがひとりいて一生懸命慰めています。

泣きじゃくっている子 看板の向こうに足だけ見える子が慰めている子
どうしたのか心配になって、声をかけようかと思いました。
そのとき二人はくるりと向きを変え、学校の方へ戻りはじめました。
写真には写っていませんが、学校の方には子供たちを送り出した女性の先生の姿が見えました。
そこで安心して引き返しました。
変にお節介を続けると、私が泣かせたように誤解されかねません。
きっとあの子は、すすり上げながら先生に事情を話すのでしょう。
そして先生は適切に対応してくれるでしょう。

学校へ戻っていった 左の子が泣いていて右の子が慰めている
ここには小さなドラマがあります。
きっとしばらくすれば本人も忘れてしまうような些細なドラマかも知れません。
しかし、私たちの生涯は、実はそうした小さなドラマの積み重ねなのではないでしょうか。
トラウマなどという言葉があり、それはこうしたドラマの中で、とくに衝撃的で記憶に深く、しかもそれと分からぬうちに刻み込まれたものだといいます。
でもどうなんでしょう。決して衝撃的でもなく、深く刻み込まれなくとも、こうしたドラマの繰り返しや積み重ねが私たちの今を総体として形作っているようにも思えるのです。
よく、「私のトラウマはね・・・」といったりする人がいます。
日常の会話の中のことですから目くじらを立てて言いつのることもないのですが、それはトラウマではないと思います。厳密に言えばトラウマとは、そのように情景を描写し言葉に出来るものではないと思うのです。それが可能なものは、すでに経験として自分の歴史に織り込み済みで、それによる「不可避の」事態が発生したりはしないのです。
ですから、本当のトラウマとは、それとして自覚もされず、むしろ記憶の底に押さえつけられていて、したがって言葉として話すことも出来ない経験、にもかかわらず、その人の言動に作用し、「不可避の」事態をもたらしたりするもののようです。
とまあ、以上はある心理学上の立場の受け売りにしか過ぎません。
私のいいたかったことは、そうしたトラウマ支配説はともかく、私が目撃したような小さなドラマが蓄積されて私たちを作っているのではないかということです。
正直いうと、泣きじゃくっている子とそれを慰めながら学校の方へ戻って行く二人の後ろ姿に少しばかり感動を覚えたのです。
何となく、この二人は終生の友だちになるような予感がしました。
ふと思い出した童謡です。タイトルは「仲よし小道」です。
♪仲よし小道は どこの道
いつも学校へ みよちゃんと
ランドセル背負(しょ)って元気よく
お歌をうたって 通(かよ)う道