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私の履歴書(九)はじめてトンカツを食べた日 そして父の帰還

2013-03-03 17:40:15 | よしなしごと
 シベリアにいるとみなされる父(実際のところ敗戦後連絡が途絶えてからは生死不明)の帰還を待つ私たちのところへ、怪しげな電報が届いたのは1948(昭和23)年3月も終わる頃のことでした。
 怪しげだったのは、宛先などはたしかに母を指してはいるのですが、差出人の署名に見覚えがなかったのです。しかしそれには、舞鶴の港についたこと、検疫などが済み次第復員列車で還ること、などが書かれていました。
 そんな差出人が違う怪しげな電報でしたが、藁にもすがる思いで、それが父からのものだと信じることにしました。我が家にも、そして母屋にも電話などない時代でした。ですから急ぎの用はすべて電報でした。それも、カタカナをモールスで打つようなものでしたから、きっと間違いもあったことでしょう。しかも、大勢を乗せた復員船の到着後とあって、舞鶴の局もきっと混乱していたことでしょう。

            

 それっきり連絡はなかったのですが、復員船が着いたあと何日かの間は復員列車が走ることになっていて、その日程やダイヤも公表されていたようです。
 復員列車のダイアで私たちの方へ来るのは、多分、舞鶴線・福知山線・山陽線・東海道線経由のもので、これですと当時の交通事情からして、朝、舞鶴を出て夕方に関西圏、そして翌朝に首都圏ということになり、幸い疎開していた近くの大垣駅にも停車するのですが、その時刻はほとんど真夜中でした。

 それよりも大変だったのは、何日から何日の間というのがわかっていたのみで正確な日取りはわからないまま、しかも怪しげな部分のある電報を頼りに、それに相当する日には4キロ離れた駅頭まで迎えにゆかねばならないことでした。
 私も毎日通いました。
 一日目、大垣駅では数人しか降りません。胸が高鳴ります。きっとあの中に父はいる。
 しかし、その日には着きませんでした。
 着いたひとの出迎えの家族からは歓喜ににすすり泣く声が聞こえます。
 私たち待ちぼうけ組は、それを横目にしながら、「まだまだ明日もありますからね」とお互いに慰め合うのでした。

          

 二日目も帰って来ませんでした。
 迎えに出ていたのは母と私だけではありませんでした。
 大垣には母屋をはじめ母方の親戚がたくさんいました(母の母、つまり祖母は、成長しただけでも10人の子沢山で、そのうち半数が大垣近郊にいました)ので、それらの人も代わる代わるやってきてくれました。
 
 そんなある日、まだ時間が早いうちから駅頭に頑張っているところへ、土建業をやっている叔父がやって来ました。戦後の復興事業で羽振りがいいという人でした。
 彼は「腹が減っては戦はできぬというから、なんかうまいものを食わせてやろう」といって、私を駅近くの洋食屋へ連れて行ってくれました。それまでに外食といえば、うどん屋ぐらいには連れてってもらったことはありましたが、まだ半分は代用食の時代、洋食屋などは生まれてこの方はじめてでした。

            

 いまでは当たり前のウースターソースの香りが、これぞエスニックとばかり鼻孔を刺激します。
 「なににする?」
 と、訊かれたって洋食の名前なぞはろくすっぽ知りません。
 「じゃぁ、トンカツでいいか」
 と、叔父は尋ねました。
 いいも悪いもありません。トンカツというのは、何かの本では読んだことがありましたが食べることはもちろん、見るのもはじめてだったのです。
 運ばれてきました。どうやってたべていいのかもわかりません。ソースのかけ方からなにから叔父の指示通りにしてかぶりつきました。
 豚肉というのもこの折がはじめてでしたから、もう、美味いとかまずいとかといったレベルの問題ではないのです。とにかく、そこらの洟垂れどもが決して口にできないものを食しているのだという優越感だけで胸が一杯になりました。
 「世の中に、こんなうまいものがあったのか」
 と、しみじみ思ったのはキャベツの一切れも残さずすべて食べ終えてからでした。
 そして、けしからんことに、こんなうまいものが食えるのなら父の帰りが少し遅れたって構わないやとさえ思ったのです。

            

 何日目だったでしょうか、とにかくこれが最後という日でした。
 この日に還らないとするとあの電報はやはり間違だったことになってします。
 列車が到着しました。
 私たちはホームを凝視し続けました。
 やはり、数人が降りてきて、いつもの様に歓喜の声が周りに沸き立ちました。
 しかし、父は降りて来ません。
 母はもう泣き崩れんばかりで、「まだ次の船があるから」と親戚の人たちにこもごも慰められ、支えられていました。

 その時です、遙かホームの彼方からこちらへやってくる人影を私がみつけました。
 「あ、誰か来る!」
 という私の叫びに、大人たちは固唾を飲んでその接近を待ちました。
 「義雄さん?」
 と、親戚の誰かが呼びかけました。
 人影は立ち止まり、
 「ハイ、義雄であります。ただ今戻りました」
 と、答えました。

 ここ何日か傍らでしか起こらなかった歓喜の渦は、今度こそ私たちのものでした。

              

 なぜ父だけ遅れたのか、これには泣かせる話があります。
 大垣駅頭に立った父は、私達の疎開している地区は駅から見て西の方角だったため、そちらを目指してひたすら歩いたのでした。大垣駅はいまでも車両基地のある電車区(当時は機関区)で、そのホームも長いのです。
 西のはずれまで行った父は、そこから先は線路しかないので呆然として「不本意ながら」改札口のある東のほうへと引き返したのでした。まるで、私たちの悲喜劇を自ら演出するかのような行為ではありました。

 そこから先はよく覚えていません。
 翌日、母屋が祝いにとうどんを打ってくれました。
 父は、人びとの笑顔に囲まれながら、うまいうまいといってあの細い体でよく入るなぁとみんが驚くほど食べました。おそらくここ何年か、満腹などという状況に恵まれたことはなかったのでしょう。

            
 
 父は、その背嚢の中から、私にといって新聞紙に包んだ数本の乾燥芋をくれました。
 いくら貧しい食生活だったとはいえ、蒸かした芋を飴色になるまで干し上げた切干いもぐらいは食べていましたから、父が持ってきてくれた乾燥芋は、硬くてまずくて食べられる代物ではありませんでした。

 でも、私は食べました。
 なぜかはわざわざ書かなくともお分かりいただけると思います。

 こんなわけで父の帰還は、私にとってはあのトンカツと、そして対極にある乾燥芋という二つの食べ物の記憶とともにあるのです。


<追伸>父の帰還の影には、無数の戦死者はもちろん、敗戦後の収容所ぐらしのなかでその過酷な条件に耐え切れず、再び故国の土を踏めなかった多くの人たちがいます。
 それらの人たちの御霊に、改めて合掌いたします。


コメント (6)
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