*写真はわが家で今咲いているものですが、震災で亡くなった方々への献花といたしたいと思います。
大震災からまる2年、その前からメディアは騒いでいるので、肝心のこの日の影がかえって薄いくらいだ。
あらためて2万人余の犠牲者に方々に哀悼の意を表するのは当然として、いまなお、住処を失い、仮設住宅や遠隔地への避難者が31万人余もいる現実を忘れてはならない。
そしてその約半数の16万人弱が、原発事故によって土地を追われた人たちで、かつての生活の場所に戻ることが出来る目処はまったく立っていないという。これは、事故による損害への保証などという次元を越えた大きな問題だ。尖閣や竹島をあわせたよりもはるかに広い領土が、失われているのだから。
政権交代以来、政権当事者たちにも、メディアにも、そして、それに踊らされた人たちにも、原発再稼動はもはや規定の事実、時間の問題であるかのような雰囲気が漂いはじめている。安倍首相は、つい最前までの国民的合意であった「2030年までの原発全廃」を、国会の場でいともあっさりと否定してみせた。
喉元すぎればなんとやらで、こんなにあっさり再稼動を既定の路線であるかのようにしてしまっていいのかという思いが募り、やりきれないものをおぼえたひとも多かろう。
最近のメディアの動向を見ていても、株価や円価格など、やっぱり経済だということが主流で週刊誌は株価三万円台を煽る。またぞろ、素人投資家が扇動されて、バブルがはじけた時のように貯蓄を巻き上げられるのではと密かに危ぶんだりもしている。
ただし、経済が活性化することは、それが雇用につながり、中小零細企業が立ちゆくようになるならば悪いことではない。しかし、そのために、現在生きている人々や、将来の人たちの安全がまったく保証されていない原発が再稼働したりすることは問題外だ。
そうした危険を排除しながら、生産や流通を確保してゆくところにこそ人の叡智があるはずである。
そうした危険性をとことん隠蔽し続け、不安を札束で黙らせるという原発という技術は、廃棄物を処理できないという垂れ流しの状況と相まって、やはり「悪魔の技術」といわざるをえない。
福島原発の事故は収拾しつつあるという。果たしてそうか。
冷却に用いた大量の冷却水はいま、行きどころもないままにただただ増え続けるのみだ。つい最近、発電所沖の魚から検出された51万ベクレルの放射能(基準値の5000倍!)は、近辺の海の死滅を告げるものであり、復活への期待を抱いている漁民たちに絶望感を突きつけるものであった。
しかし、そうした暗澹とした思いに対し、ここ2,3日の経験はいくぶん明るさをもたらすものであった。首都圏を始めとする反原発の意思表示は久々に盛り上がったし、日本の電力会社や原子力村の統制が効かない台湾では9日、なんと10万人の反原発デモが起こったというのだ。台湾の人口は2千万強であるから、この規模は日本での50万人のデモに相当するのだ。
ヨーロッパからは、フランス、ドイツでのやはり日本の3・11に呼応した大規模デモが伝えられる。
世界は、この日を忘れてはいなかった。
ひとり日本のみが惰眠を貪ったり、「経済のために」という狭小な理由で悪魔の技術に魂を売るわけにはゆかない。
ヒロシマ・ナガサキと被爆国であることのみを強調してきたこの国は、いつの間にかこの悪魔の技術を用いて国民を被曝させ、あまつさえ、その技術を輸出しようとさえしている。
あらゆるモラルを投げ捨てた狭義の経済は、その発展を大義名分にし、隠すべき情報は徹底して隠し、限られた地域に札束の雨を降らすことによって再稼動を勝ち取ろうとするだろう。
しかし、それらは阻止しなければならない。
それは、今ここで生きている私たちのためのみならず、将来の人間たちのためであり、3・11を新たに原発廃棄の運動のスタートとして立ち上がっている世界の人々への責任でもあるのだ。
大震災からまる2年、その前からメディアは騒いでいるので、肝心のこの日の影がかえって薄いくらいだ。
あらためて2万人余の犠牲者に方々に哀悼の意を表するのは当然として、いまなお、住処を失い、仮設住宅や遠隔地への避難者が31万人余もいる現実を忘れてはならない。
そしてその約半数の16万人弱が、原発事故によって土地を追われた人たちで、かつての生活の場所に戻ることが出来る目処はまったく立っていないという。これは、事故による損害への保証などという次元を越えた大きな問題だ。尖閣や竹島をあわせたよりもはるかに広い領土が、失われているのだから。
政権交代以来、政権当事者たちにも、メディアにも、そして、それに踊らされた人たちにも、原発再稼動はもはや規定の事実、時間の問題であるかのような雰囲気が漂いはじめている。安倍首相は、つい最前までの国民的合意であった「2030年までの原発全廃」を、国会の場でいともあっさりと否定してみせた。
喉元すぎればなんとやらで、こんなにあっさり再稼動を既定の路線であるかのようにしてしまっていいのかという思いが募り、やりきれないものをおぼえたひとも多かろう。
最近のメディアの動向を見ていても、株価や円価格など、やっぱり経済だということが主流で週刊誌は株価三万円台を煽る。またぞろ、素人投資家が扇動されて、バブルがはじけた時のように貯蓄を巻き上げられるのではと密かに危ぶんだりもしている。
ただし、経済が活性化することは、それが雇用につながり、中小零細企業が立ちゆくようになるならば悪いことではない。しかし、そのために、現在生きている人々や、将来の人たちの安全がまったく保証されていない原発が再稼働したりすることは問題外だ。
そうした危険を排除しながら、生産や流通を確保してゆくところにこそ人の叡智があるはずである。
そうした危険性をとことん隠蔽し続け、不安を札束で黙らせるという原発という技術は、廃棄物を処理できないという垂れ流しの状況と相まって、やはり「悪魔の技術」といわざるをえない。
福島原発の事故は収拾しつつあるという。果たしてそうか。
冷却に用いた大量の冷却水はいま、行きどころもないままにただただ増え続けるのみだ。つい最近、発電所沖の魚から検出された51万ベクレルの放射能(基準値の5000倍!)は、近辺の海の死滅を告げるものであり、復活への期待を抱いている漁民たちに絶望感を突きつけるものであった。
しかし、そうした暗澹とした思いに対し、ここ2,3日の経験はいくぶん明るさをもたらすものであった。首都圏を始めとする反原発の意思表示は久々に盛り上がったし、日本の電力会社や原子力村の統制が効かない台湾では9日、なんと10万人の反原発デモが起こったというのだ。台湾の人口は2千万強であるから、この規模は日本での50万人のデモに相当するのだ。
ヨーロッパからは、フランス、ドイツでのやはり日本の3・11に呼応した大規模デモが伝えられる。
世界は、この日を忘れてはいなかった。
ひとり日本のみが惰眠を貪ったり、「経済のために」という狭小な理由で悪魔の技術に魂を売るわけにはゆかない。
ヒロシマ・ナガサキと被爆国であることのみを強調してきたこの国は、いつの間にかこの悪魔の技術を用いて国民を被曝させ、あまつさえ、その技術を輸出しようとさえしている。
あらゆるモラルを投げ捨てた狭義の経済は、その発展を大義名分にし、隠すべき情報は徹底して隠し、限られた地域に札束の雨を降らすことによって再稼動を勝ち取ろうとするだろう。
しかし、それらは阻止しなければならない。
それは、今ここで生きている私たちのためのみならず、将来の人間たちのためであり、3・11を新たに原発廃棄の運動のスタートとして立ち上がっている世界の人々への責任でもあるのだ。