写真は内容とは関係ありません。最近見かけた廃屋(2)
前回、見慣れた川が逆流しているのを目撃したことを述べた。
今回はその原因などについて述べよう。
かってこの川は、この辺り一帯の田に水を供給する農業用水の役割を担い、ここから分岐した水が小川となって田の間を流れていた。
谷から出た水が、扇状地状に田を潤し、それらが再び川に集約され、その繰り返しで海に至るのが日本の田園風景の一般的な様子だったが、この川もそうしたものとして機能していた。
ところが、1980年頃だろうか、この辺りの田圃はこの川からの給水によるのではなく、ところどころに掘られた井戸からポンプで必要なときにのみ水を汲み上げ、U字溝を使って田に水を送るようになった。
そのポンプの威力たるや強力で、うちから100mほどにあるものは直径30cmもあろうかという蛇口からドバーッとばかりに水が溢れだしている。
この井戸の煽りを食らってうちの井戸が枯れてしまった。
蛇口をひねると不吉な音がして、わずかばかりの水と砂を吐き出すのだ。
業者を呼んで相談したら、やはりあの井戸に負けているという。
しかたがないので、ン十万を払いもうひとつ深い水脈へと井戸を掘り直した。
別に恨みつらみがいいたいのではなく、かくして田圃への給水は私の馴染んだ川からではなく、ところどころに掘られた強力な井戸水に依存するようになったということである。
近所の農家の人に聞くと、そのメリットはその時折の気候などに左右されることなく、必要なときに必要な水を田に引けるということであり、さらには、良質の地下水のせいで、米がうんと美味くなったというのである。
ようするに生産性が向上し、おまけにその生産物の質が向上したということである。
かくしてこの川は、給水という任を解かれたのであるが、それに伴う変化を書き留めておくべきだろう。
この川から取水し、かつて小川を形成していた流れは不要になり、より合理的に水を運ぶU字溝に取って代わられた。そして、ポンプが稼働しない間は全く水が枯れたコンクリートの溝になってしまった。
だから、かつてそこに住んでいたフナもドジョウもメダカもゲンゴロウもタガメもミズスマシもアメンボも、ザリガニすらも姿を消した。
これらについての論評は控えよう。
世の中、すべからく合理化や生産性の向上が叫ばれるなか、米作りの農家がひとり、旧態然とした生産方式を守るべきだとはその米を日々食している私たちが安易にいうべきことではないからである。
さて、川の逆流に戻ろう。
その原因は、私が目撃した地点のやや下流に流れ込んでいる支流にある。
この支流の近くにも強力な井戸があり、周辺の田圃に給水しているのだが、折からの雨で水が余り、その余った分がその支流に放水され、支流の水量が増え、その合流点で下流に吸収されない分が逆流しているのである。
かつて、給水源であったこの川は、今や排水路になってしまっているという事実がこの逆流という現象となって現れているのだ。
繰り返しになるが、これをもって今の米作りを批判したり、それが招いた環境破壊を告発しようとしているのではない。そしてそんな資格は私にはない。
これは私たちが希求し、欲望してきたひとつの結果にしか過ぎないのだから。
いささか大げさにいえば、これらは19世紀中頃から、主として西洋に発する私たち人類の文明の姿なのだ。その意味では、あらゆる公害、あらゆる人災、そしてその最たるものとしての原発事故も同列上にある。
この無際限に広がってしまっている事象に、私たちはどう向き合えばいいのだろうか。
まさに人間の「思考」が動員されるべきところにさしかかっていると思う。
とりあえず私にできることは、そうした事象を記述し続けることのみである。