六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

2020 東京五輪についての雑感

2013-09-09 17:47:35 | 社会評論
         

 2020年の東京五輪が決まった。
 これを待ち望んでいた人たちにはまたとない朗報であろう。
 私も各種スポーツは嫌いではない。
 競技経験は殆どないが観戦は好きである。
 だが地方都市に住む私にとって、五輪観戦の機会はない。
 ただ、同一の生活時間帯で行われるのでTV観戦は可能かもしれない。

 ただし、無邪気に喜んでばかりはいられない事情もたくさんある。
 まずは、東北の復興、原発事故の収拾などとの関連である。
 推進の論理は、五輪招致によりこれらが進むという。
 その辺がよくわからない。
 五輪やその関連で使われる巨額な費用を考えると、それを直接被災地復興に振り向けたほうがと思うのだがどうだろう。五輪でしこたま稼いで、そのおすそ分けで復興ということなのだろうか。
 原発事故との関連も不透明だ。
 招致の際に、盛んにいわれた、「東京は大丈夫です」「200キロ以上も離れているのです」という口ぶりは明らかに被災地差別を含んでいた。

 日本の国土全体にしても、東京を中心としたインフラの高度化などが進み、地方との格差が一層広がることだろうと懸念される。

 それと関連して、どうもスポーツには余り関心のないような人たちが、それ以外の関心、ようするに利害、もっと率直にいえば「金儲け」のために手ぐすね引いているのが実状だろう。ニュースなどを見ていても、スポーツ関連の話よりも、何兆円単位の経済効果について嬉々として報じられるのが実状である。かつて長野五輪が開催されたとき、開催県の知事が、「スケート競技というのはミズスマシのようにクルクルまわっているのみでどこが面白いかわからない」とのたまわったことがる。
 今回もまた、どうもそんなたぐいの人たちが鵜の目鷹の目で利権あさりをするのだろう。

 五輪は平和の祭典だという。
 そうあってほしいものだ。
 しかし現実には、政治的駆け引きやテロルの場でもあった。
 1972年のミュンヘン五輪では、五輪の場そのものがテロルによる血で染められたし、1968年のメキシコでは、黒人差別に抗議した選手のメダルが剥奪された。
 
 その他冷戦期には、東西のそれぞれが他方の開催をボイコットするという二.五輪として行われたこともある。また、ナチス・ドイツが、聖火の通ってきた道を逆に進撃してヨーロッパ各地へ侵略したことも語りぐさになっている。

 2020年、世界がどんな状況になっているのか予測はつかないが、冷戦体制後のかえって複雑さを増した国際情勢のなかで、果たして大国の意志のみに添うのではない、公正で平和な五輪が実現できるだろうか。
 そうあって欲しいしそうでなければならない。

 五輪に関してもうひとつ気をつけねばならないことがある。
 それは各種規制や統制が強化されることである。
 1964年の東京五輪の際は、諸外国に恥ずかしいからという、それ自身恥ずかしい理由から、屋台がすべて廃止された。世界中の都市で、屋台や路上の活用によって活気を生み出しているところが無数にあるなか、この国は、道路に看板が出ているだけで規制されるようになったのだ。
 もちろん規制は屋台などの施設にとどまらない。
 私たちの立ち居振る舞いまで規制の対象になる可能性がある。
 警備に名を借りた情報収集や各種統制も強化されるであろう。

 五輪がそうしたなかで行われることは覚えておいていいであろう。
 その上でそれが、平和裏に世界の若者たちが集う場になればそれはそれで良いことだ。青少年たちにスポーツの素晴らしさを伝えるという五輪本来の目的外の雑音を排除しながら静かに見つめてゆきたい。

 為政者たちは、原発事故の収拾を始め、東北の復興をそれまでに成し遂げると世界に約束したのだから、ぜひそれを守るべきだし、私たちもまた、それを五輪ほしさのリップサービスに終わらせないようしっかり監視しなければならない。






コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする