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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【闘病記】多治見にも熊谷にも四万十にも勝った!

2013-09-19 12:18:44 | よしなしごと
          

 ちょっとのどが痛いかなと思ったのは12日のことで、早速、近くのクリニックへいって、風邪薬など一式をもらってきた。15日には遠来の友人と会う約束があったのでそれまでには治したいと思った。13日は大過なくすぎた。
 容態が急変し始めたのは14日の夕方からだった。
 これはまずいと早寝を決め込んだのだが、明け方になっても事態は悪化する一途だ。
 夜が明けるのを待って友人にお詫び方々キャンセルのメールを出した。
 
 その後が修羅場であった。体がどんどんけだるくなる。何かをしようとする気力も体力も完全に失われた。それでも生理現象はある。ふらつく足で手洗いに入った。さて出ようとしたとき、まさにその場、つまり手洗いのなかでヘナヘナと崩れ落ちたのだ。
 ひとは起き上がろうとするとき、床に手をつくなどしてそれを支えに身を起こす。しかし、その支えとすべき手に力が入らないで、またもや崩れ落ちてしまう。それを2、3度繰り返したあと、変な話だが、便器にしがみつくようにしてやっと腰が浮いた。
 しかしまだ立ち上がれたわけではない。老後のために用意した手すりの棒がある。そこまで手が届きさえすればとにじり寄るように迫った。やっとそれを掴むことができた。普通ならそれでエイヤッと立てるのだがそうはいかない。握った棒を後生大事に要領の悪い猿の木登りのように上へと辿り、やっと立つことができた。
 チャップリンの手にかかれば、これだけで短編の喜劇が一本できそうなありさまだ。

 さて、二階の私の部屋へ戻らねばならない。階段をイグアナのように這いずって登った。これは尋常ではない。早速、体温を計ったら、な、な、何と41.5℃もあるではないか。
 これはやはり医師の治療を受けねばなるまい。しかし、15、16日はあいにく連休である。ネットで緊急治療をしてるところを探したが、緊急医療の説明やら何やらゴタクが書いてるばかりで肝心のそれがどこにあるのかはまったく出てこない。この役立たずめが。

 しかたがないので、モチは餅屋だと119に電話をしてそれがどの場所かを尋ねた。この時はまだ、自分で車を運転してゆくつもりだった。
 「どんな具合ですか?」という問いにカクカクシカジカと答えると、「そんな状況で車を運転してはいけません。われわれが出動します」とのことでまもなくサイレンも高々とやってきた。正午に近い時間だったと思う。「そんなに熱がある?」と救急隊員が念の為に計ったときは39.8℃だった。

 そうして緊急受け入れの病院に連れてゆかれたのだが、その時もまだ、必要な処置と薬などもらって帰るつもりでいた。
 しかし、当直医は非情にも「即、入院です」と告げるのだった。
 「な、何日ぐらいですか?」と尋ねる私。
 「今日明日は休日ですから明後日に検査をします。それ次第です」

 とにかく喉が痛く、咳や痰が出るとき悲鳴が出そうなくらい痛い。固形物はもちろん、水を飲んでも痛い。声が出ない。熱は下がらず、頭痛がし、体はバラバラの感じだ

 うちへ電話をして必要な物を持ってきてもらうにも必死だった。声がまったく出ないのだ。それでも休日で娘がいたため何とか通じて着替えなどが届いた。2日目の夜には、幽霊のような声なら出るようになったので、同人誌の仲間に電話をし、次回会議には出られそうにないのでと、私のパートについての必要なデータを伝えた。

 これを書いているのは入院3日目、各種検査を済ませた後だ。
 「で、検査の結果は?退院の日取りは?」咳き込むよう(これは比喩でもなんでもないな。実際に咳き込んでいるのだから)に尋ねる私に、「そんなに簡単に結果は出ません。ある程度回復がみえたら、退院前でも外出許可を出します」とのことだ。ところで入院してからまる3日間、点滴ばかりで食事はない。出ても食欲はないし、空腹感もない。

 その後、医師から気管支炎だと告げられた。前にももっと軽い症状のものを経験しているのでやはりそうかと思ったが、年齢とともに症状がひどくなるのではと今後のことも心配だ。

 話は変わるが、日本の病院というのは、どこもネットへの接続はできないのだろうか。せっかくパソコンを持って来てもらったのだが、ワープロ代わりになるのみだ。いま書いているこれも、退院か外出許可が出た折、うちから発信するつもりだ。

 私の発熱は、多治見も熊谷も四万十も超えた。
 しかし、そのせいで、ただでさえ少ない脳細胞のかなりの部分が死滅したように思う。
 熱が最高点に達した折、頭のなかで数の子が潰れるような、プチプチプチという音がしたのはそのせいに違いない。

《付記》二日目には名古屋の息子夫妻も来てくれて家族が揃った。わざわざ名古屋くんだりから来るようなことでもあるまいと憎まれ口は叩くが、内心悪い気はしない。
 しかし、それを見ていて強烈に思ったことがある。
 それはある種の既視感を伴うものであった。
 20年ほど前に父親を送り、10年近く前には母を送った。

 その時、私がいた位置は、そう、今、子どもたちがいる場所だった。
 世代交代とは、そういうことなのだろう。
 私はもう、こちら側に来てしまったのだ。

 

 お読みいただきました皆さんへ
 上記は9月19日に一時帰宅を許された折にオンしたもので、夕刻には病院へ戻ります。
 従いまして、これにコメントを頂きましても、正式退院後にしかご返事をさし上げることはできません。ご了承ください。
 









 
コメント (6)
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