
立春過ぎとはいえ2月の雨は、冷たく陰鬱で、まさに「春は名のみの」ですね。さまざまな世事の陰惨な模様もいっそう気を重くするようなものばかりです。
ちょっとそれらから離れて、この前読んだ、多和田葉子さんの『言葉と歩く日記』(岩波新書、2013)から、面白いと思ってノートしておいた、「多和田語録」のあれこれを。
*文中にあまり意味のない言葉を入れること
いわゆる「虚辞」、多和田さん曰く「詰め物言葉」。
「つまり」「結局」「ようするに」「なぜか」「したがって」「いってみれば」などなど。
これらはリズムを整える働きもありますが、大抵の場合、なくてもいいようです。
にもかかわらず、これらが多用されるのは、「はっきりいわないことによって角をなくす」ためだろうとのことです。
しかし、多和田さんの鋭い指摘は続きます。
「このはっきりいわない」は「言葉に籾殻をまぶす行為」だということなのですが、しかし、籾殻をまぶさずにはっきりいって、その結果、世間の批判を浴びることは「それだけの価値があること」で、「言葉にとっては致し方ないこと」だというのです。
これには圧倒されました。
なお、自戒ですが、当初、そうした「詰め物言葉」を多用するのは中味の貧弱な政治家たちの言葉だろうと思っていたのですが、な、なんと、私自身の書く文章にもそれらが多用されているのです。
ショックです。以後、それを意識して書くようにしています。
*「産婦人科」という日本語の奇妙さ
ドイツには「産婦人科」はないのだそうです。
なぜなら、産まない女性も対象にするのになぜ「産」がつくのか、また独身の女性も利用するのになぜ「婦人」なのかということだそうです。
ドイツにあるのは「女性科」(Frauenarzt)で、これは「Frau(女)」と「Arzt(医者)」を単純に組み合わせた言葉だそうです。
「お前が産め!」というお馬鹿な野次をとばすどこかの議員さんを彷彿とさせる話ですね。
*「古事記」の「ワニザメ」について
「古事記」の「ワニザメ」については、日本にワニはいないから、フカやサメのことだとされています。小さい頃に見た絵本でも、そうした魚の絵が描かれていました。
しかし、本当にそうでしょうか。
フランスの社会人類学者、民族学者・レヴィ=ストロースが収集した世界中の神話や民話には、同類の話がいっぱいあって、もちろんこの「因幡の白兎」とそっくりな話もあります。
そうしたトランスナショナルな神話や民話の構造を背景に理解するためにはワニでも一向にかまわないのではないかというわけです。
何でも合理主義的な解釈の枠に押し込めようとするのは、想像力を損なうばかりか、かえって知的探求の動機をも閉じ込めてしまうということでしょう。
*縦書きの問題
ネットではこうした横書きが一般的ですが、日本の書物、とくに文系のものや文学作品は縦書きが普通です。
しかし、この縦書きは今や圧倒的少数派というかほとんどなくて、日本の他にはモンゴルぐらいらしいのです。ただし、モンゴルの場合は左から右へと読み進めるようです。
韓国や中国の若い文学者に縦書きの日本の文学書などを見せると、「なに、これ」と珍しがるようです。
*柳宗悦の「侘」論
侘は、「ものの足らざる様」といわれます。いわば「不完全の美」ですが、かといって「不完全を求めた」ものでもないようです。
いってみれば「完全・不完全」の区分を超えたもの、つまり「完全からの自由」のことだそうです。
西洋形而上学の超克とも通じる視点があるようです。
*飛行場について
最後に、ダジャレっぽいものをひとつ。
「羽田」は飛行機に羽がはえているからそれでいいが、「成田」は田畑を潰して作ったのに、なぜ「成田」なのか、とのことです。
こんなことを書いていたら、雨はすっかり上がり、西の方から明るくなってきました。