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これぞポーランド映画! 『イーダ』を観る(ネタバレ最小)

2015-05-08 11:14:24 | 映画評論
 名古屋へ出た折に、ポーランド映画『イーダ』(2013年 パヴェウ・パヴリコフスキ監督)を観ました。
 
 時代は1962年、ポーランドがソ連圏の社会主義国家であった頃のことです。
 出生不明で修道院で育った思春期を迎えた少女イーダ(修道院での名前はアンナ)は、ある日、院長から、唯一の肉親である叔母の存在を告げられ、正式に修道女になる儀式の前に、一度、会っておいてはどうかと勧められます。

          

 この映画は、その伯母とイーダが第二次世界大戦中に、イーダの両親が亡くなった真相を突き止めるための数日間の物語です。
 まずはその過程でイーダは叔母から、自分がユダヤ人であることを知らされるのですが、その事実は両親の死の真相と深く関わっています。

 この叔母が何者かというと、社会主義政権下での検事として「体制」の秩序を守るために辣腕をふるい、それなりの権力(例えば飲酒運転の事故を帳消しのさせるぐらいの)をもっています。そしてその辣腕ぶりは、両親の死を突き止める過程でも随所に発揮されることとなります。
 同時にこの叔母は、快楽派でもあり、その点で敬虔なイーダとの対称も明確です。

          

 ついに彼女たちは事の真相に行き着く事になるのですが、その詳細はネタバレになるから書きません。ただ、反ユダヤ主義はナチスの専売ではなく、そのナチズムを育んだヨーロッパの伝統的なひとつの立場であり、それがナチズムによって増幅され、ナチスではない人たちのなかでもそれを「実践」した事実があったことは指摘しておきます。
 また、この真相と、それを追求する過程そのものが、戦中戦後のポーランドの歴史を垣間見させるものであることも言い添えるべきでしょう。

          

 この探索の過程と結末は、叔母にも、そしてイーダにも、大きな衝撃とそれによる行為を促すことになるのですが、これもネタバレになるから書きません。
 ただ、ラストシーンでのイーダは、受動的な女性から自ら判断し決意する女性へと変貌したことを伺わせます。手ブレのように揺れるカメラワークは、もはや彼女が純真無垢ではなく、現実との対応に文字通り揺れながら対応してゆく主体へと転じたことを示すようです。

          

 この映画は、1950年代後半から60年代前半にかけて、世界の映画界を震撼させたポーランド映画へのオマージュでもあります。『灰とダイヤモンド』や『尼僧ヨアンナ』を想起される方もいるでしょう。監督はそれらへのシンパシーを形の上でもはっきり示しています。それはこの映画が、当時のクラシック・スタンダードサイズで、しかもモノクロに終始していることです。モノクロとはいえ、全体に美しい映像に仕上がっています。

          

 もうひとつ気づいたことがあります。
 それはこの映画では結構音楽が出てくるのですが、バックグラウンドに流れるいわゆる映画音楽ではなく、ほとんどが当時の蓄音機やカーラジオ、生演奏のシーンから出るいわゆる「現実音」が使われていることです。
 私が知っている限りでは、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」(K551 これは叔母好きな曲らしく、彼女のシーンで実に効果的にお使われています)、生演奏シーンでのコルトレーンのジャズ(イーダが興味を示す曲であり、それが彼女の俗世間への通路ともなります)、さらにはラストシーンのバッハのピアノ曲などです。

          

 この最後の曲のみが、唯一、「現実音」ではないいわゆる「映画音楽」でした。バッハだということまでは突き止めましたが、曲名はわからず、帰ってから確かめたら「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」(BWV639 )で、上述したイーダが主体へと転じたことを示すラストシーンには実にふさわしいものでした。

 帰途、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』のマチェクの生き様に、さまざまなものを重ねあわせて観ていた青春の日の自分をつよく思い出していました。
コメント
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