六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

久々の「森と花のカフェ」

2015-05-11 21:27:04 | 日記
 いつも、岐阜の街で逢って情報交換をしたりしているひとがいて、先日も逢った。
 お互い、夕方には帰宅しなければならない身なので、いつもは市内の喫茶店で逢っている。

 しかし、今回はたまたま時間があり、天候にも恵まれていたので、私が推奨する板取川沿いの「森のカフェ」まで足を延ばした。岐阜から車で1時間ほどである。
 新緑のなか、車窓から入る風は植物群の吐息を交えて爽快そのものだ。

 春の華やかな花々が終わって一段落といった風情だったが、それはそれなりに風情がある。なんやかんやで数回訪れているが、この時期は多分初めてだと思う。
 そのせいか、これまで見たことがない花々を目にすることができた。

 野暮な説明はやめて、まずは写真をご覧頂きたい。
 急なことだったので、ガラケーしか持ち合わせていなくて、写真があまり良くないのは残念だった。



    
    
    



    
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「もし世界の終わりが明日だとしても・・・」と桜ん坊 付:破局論

2015-05-11 00:39:53 | よしなしごと
 完熟の「桜ん坊」(なんとなくこの表記が好きだ)を収穫した。
 といっても、あえて書くほどのことはない。
 写真を撮る気力も失せるほどの収穫量だったからだ。
 したがって、ここに載せた写真も昨年のものだ。

 昨年すでに収穫は激減していた。木の半分ぐらいが枯れてしまったからだ。最盛期には、写真ぐらいの量を、一日置きに3、4回は採ることができた。それが昨年はここに載せた写真の分ぐらいを一度採り、あとは落穂ひろい程度だった。
 そして今年は木の4分の3が枯れ、収穫はさらに激減し、ついに豆腐の空き容器一杯分ぐらいにしかならなかった。

 もはや木そのものの寿命と思われる。じつは、いまの木も2代目で、初代の脇に生えていたものがうまく引き継いでくれたものなのだ。
 そんなこともあって、3代目たるべく新しいものを数年前から鉢植えで育ててはいる。しかし、まだ花も咲かないから、来年からしばらくは空白ができることは必定だろう。

          

 そうした事情も鑑み、4代目を準備することとした。
 今回採ったもののうち、熟しすぎて茶色がかったもの、半分鳥たちに食われてしまったものなどの種から育てようと、三つほどの鉢に分けてそれらを蒔いたのだ。このうちどれかは発芽するだろう。

 ところで、これらが芽を出し、成長し、花をつけ、実を宿すのはかなり先のことである。そしてその時まで私が生きていることはもちろん不可能だろう。第一、いま育てている3代目だって間に合う可能性は極めて低い。

          

 種を埋めながら、「もし世界の終わりが明日だとしても、今日私は林檎の種子を蒔くだろう」という言葉を思い出していた。
 この言葉は、ゲオルグ・ゲオルギウ(1901ー65年)というルーマニアの共産党書記長を務め、スターリンの忠実な代官ともいわれてルーマニアに独裁体制をもたらした人の言葉である。東欧革命の際、処刑されたチャウシェスクはこのゲオルギウの後継者に当たる。

 こうした彼の経歴は全く好きになれないが、この言葉は美しいし、共感することができる。
 というのは、私はある意味では悲観論者で、人類は確実に自己消滅という破局への道をひた走っていると思うのだが、かといって生きる希望をもたないわけではない。

          

 まずは、その破局への接近という事実をいい続けたいし、少なくともそれには加担したくない。できれば抵抗もしたい。その限りで、予測としては悲観的であっても、それからの離脱への可能性を自他に確認し続けるという行為において、希望を失うものではない。
 だから、種を蒔き続ける。そしてそれは、希望を捨てないということ、未来から今を規定するループした円環的な時間のうちに身を委ねるということなのだと思う。
 
 そう、特攻隊で確実な死に直面した若者たちが、これで国家が救われるなどという実利的で強要された価値付けとは別に、自分の生命を実存として位置づけようとして到達したひとつの立場のように。

          

 桜ん坊はこんな有り様だし、琵琶ももう小さい実がついていなければならないのだが、どうも駄目なようだ。
 そんななか、桑が健闘していて、今年は豊作のようだ。
 こちらの方は正真正銘、今年の今現在だが、ご覧のようにびっしり実が付いているし、もうそろそろほんのり色づいているものもある。

 捨てる神あれば拾う神ありだ。


人類の破局 科学技術の無政府的な発展拡散(ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報に関するもの、認知技術などの融合、核兵器の存在と原子力機関の存続)、そしてそれらと結びついた極端な経済至上主義、さらには、それらを統御しているかのように振る舞いながらもその下僕でしかない政治。これ以上破局の要因を数え上げる必要はあるだろうか。
コメント (2)
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