前回は、義仲寺について書こうとして、木曽義仲に関することのみで終わってしまった。
今回はグッと時代を引き寄せ、この特色がある寺について書こう。
大津のメインストリートともいえる湖岸通りが、なぎさ通りと大津草津線に分岐する地点から一本南に入った乗用車がやっとすれ違えるような狭い通りに面してこの寺はある。しかし、この狭い通り、実は旧東海道なのである。
普通、寺院といえば、かつての幾多の建造物群をもった大伽藍は別格としても、正方形に近く、そこそこの面積をもったものだと考えがちだ。しかしここは違う。間口は二〇メートルにも満たず、それがそのまま数十メートル奥へ続くという、うなぎの寝床のような敷地なのだ。しかし驚くべきは、この狭い空間の中に時代を重ねた様々な要素が、その密度も濃く凝縮されているということだ。
石山寺や三井寺の広い敷地を歩いた後とあっては、まるで嘘のように様々な要素がギュッと詰め込まれている感がある。
まずはその名称通り、ここには、この近くの粟津の戦いで、ぬかるにその騎馬が足を取られて討ちとられたという木曽義仲の墓がある。なお、この墓所の傍らに庵を建て、供養を日々欠かさなかったみめうるわしい(とパンフにあった)尼僧がいて、彼女こそ義仲の死の直前、涙の別れを演じたかの巴御前だったという。
その庵は「無名庵」といわれ、いまもその末裔が同じ名前で境内に存在する。そしてこの寺は当初、巴寺といわれ、それが転じて義仲寺といわれるようになったという。
義仲の公墓、木曽塚の隣に巴塚が建立されているのもむべなるかなだ。
上:義仲公墓 下:巴塚
そして、その巴塚の反対側、木曽塚と並んで立つのが芭蕉の墓である。
この墓、全国に散財する句碑などのモニュメントではなく、正真正銘の彼の墓なのである。
芭蕉が亡くなったのは、一六九四(元禄七)年十月一二日であるが、彼の遺言に従い、その翌日には去来、其角など門人十人とともに川船で淀川を上り、伏見経由でその日の午後には義仲寺に入り、翌一四日の葬儀の後、木曽塚の向かって右側に埋葬されたという。
芭蕉の墓 この下に埋葬されている
ところで、なぜ芭蕉がこれほどまでに義仲に入れ込んでいたのかについての芭蕉自身の言及はほとんどないようだ。義仲を詠んだと思われる句には以下のようなものがある。
義仲の寝覚めの山か月かなし
木曾の情雪や生えぬく春の草
ただし、芭蕉は、義仲を討った義経に対しても同じようなシンパシーをもっていたのではないだろうか。
「奥の細道」の旅は、平泉で育った義経が何度も往復したといわれている奥州路をなぞる。そして、「夏草や兵どもが夢の跡」も、藤原三代の栄華を偲ぶとともに、義経主従の最期に思いを寄せた句であろう。
また、この旅の後半、北陸路を経て大垣へ至る道は、義経が落ち延びた経路の逆行でもある。
したがって、この旅自体が義経の足跡をなぞった面をもつ。
芭蕉が、義経にも義仲にも感慨をもって接していたことは事実であるが、前回も述べたように、彼らがそれなりの功績を遂げながらも、儚く散らざるを得なかった無常観のようなもの、またそれ故に、俗世のリアリズムから少なからず異なるイメージを残したことなどによるものではなかろうか。
そのなかで、とくに義仲を指名したのは、生前、義仲寺の無名庵に度々滞在し、この地の弟子たちと句会を催し、親しく交わったことによるのだろう。
彼の、遺言をよく読むと、この地の利便性のようなものを評価したプラグマティックな意図が読みとれる。
「骸(から)は木曽塚に送るべし。ここは東西のちまた、さゞ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也。懐かしき友達のたづねよらんも、便りわづらはしからじ」
この遺言にもある通り、この寺は今でこそ街なかのいささかごちゃごちゃしたところにあるが、元禄の当時は埋め立てなどはなく、東海道の向こうは琵琶湖の眺望が楽しめる場所だったのだろう。
同時に、交通の要所であったこの場所で、彼は後世の人たちとも交わり続けることを夢見ていたのかもしれない。
行く春を近江の人と惜しみける
これは、義仲寺の無名庵に滞在中、四キロほど離れた唐崎で詠まれた句のようだが、芭蕉の近江の人々との交流の様子をよく伝えている。
義仲寺には、まだまだ見落とせない事物が凝縮しているのだが、芭蕉に関する件のみで長くなってしまった。
また回を改めたい