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アメリカの現代小説『トラスト』を読んで・・・・

2023-11-02 00:17:24 | 書評
 ちょっと面白い構成で書かれた小説である。全体は四部に分かれている。
 その第一部は、それ自身独立した一編の小説をなしていて、それだけでも完結しているといえる。その内容は、1900年代前半、アメリカNYで金融王といわれた男とその妻の物語である。
 
 二人の性格が対照的で面白い。男の方は天才的といわれた数学の才能を持ち、数字との関連にしか興味がなく、その才能が金融での成功をもたらしたとされる。一方女性の方は文学や音楽、絵画などへの深い関わりをもちその享受の才能がある。
 
 そのいわば正反対ともいえる趣向の持ち主がなぜ結びついたのかというと、彼と彼女にはある意味での共通点があったからで、それは二人共自分の興味の対象以外の余分な社交や忖度、外交的辞令などを嫌い、自分のなかに閉じこもりがちだったということである。
 
 それでもって二人はうまくやっていたといえる。夫は金融業界で逆張りのような才能を発揮し、あの1929年の大恐慌においても、世間の悲惨な状況をよそに逆に莫大な利益を上げる。彼はそれらで得た利益を妻の趣味のために惜しみなく提供する。妻の領域はちょっとした画廊や音楽サロンと化し、芸術家やそれを鑑賞する人たちが集うが、彼も彼女もその社交的な付き合いに揉まれることはなく、主要な催しが終了するやサッと自分の領域に引き下がる。
 やがて妻は、芸術家たちを支える財団を創設し、それに夫の名を冠する。いわゆる企業メセナである。

 こんな夫妻であったが、妻は若くして精神にかかわる病に取り憑かれ、その治療を巡って精神分析的な技法と、ショック療法などの物理的治療との葛藤があるなか、ある日壮絶な最後を迎えてこの第一部は終了する。

            
 しかし、この一応完結したと思われる一編の小説は、いわばたたき台にしかすぎず、その後の二部から四部までが続き、500ページ近い長編として形成される。

 第二部は、その夫金融王の手記で、その妻に対する惜別の情を含んだ部分以外には、数理にしか関心のない彼らしいそっけない表現がほとんどで、文学的な要素はあまり含まれない。

 第三部は、この金融王が第一部の小説が事実と異なる誤りであるとして、自分の力でこれに対抗する冊子を編もうとする試みのなかで、彼の口述するところを速記で書き留め、それらを文学的な要素を含んだものとして文章表現をする書き手として採用された若い女性の文章である。

 ただしそれは、その結果出来上がった作品ではなく、それを書く過程ででの金融王と彼女との関係、その推移である。彼女は、その文章表現に関する能力にとどまらず、利発で探究心が旺盛で、金融王の要請範囲を超えて、あるいは彼が禁じた領域にまで触手を伸ばし、とりわけ金融王の妻であった女性の実像への追求を深めてゆく。

 それらが、金融王との触れ合いの時期、並びにその後の彼女の関心の継続にまで至って描かれている。そして、その探求の結果、ついに突き止めた金融王の妻のさほど長くない日記がこの書の第四部をなしている。
 この第四部には、これまでの三部では全く想定できなかった事実がサラッと述べられていて、推理小説のどんでん返しに似た驚愕を誘う。

         
 これがこの書のあらすじであるが、この作者の守備範囲は広く、各方面での造詣の深さが垣間見られる。その一つはもちろん、金融王の活躍の舞台であったNYを中心に世界を対象とした投機や融資などなど金融業界の実態、あるいは大恐慌を含む1900年代前半のその推移などについてである。

 さらには、第三部の代筆ライターの女性の父親をイタリア系アナキストに設定しているのも面白く、金融王との対比、マルクス主義とアナーキズム、トロツキズム、スターリニズム、ナチズムなどなど往年の各党派に関する叙述もかなり確かである。

 もう一つ、金融王の妻が関わり合った芸術家たち、とりわけ20世紀初頭の音楽家たちとの交流に登場するそのビッグネームには驚かされる。
 演奏者側としては、指揮者のブルーノ・ワルターをはじめヴァイオリニストのクライスラー、ハイフェッツ、ピアニストのシュナーベル、ローゼンタール、作曲者としてはブロッホ、ストラヴィンスキー、レスピーギ、ラヴェルなどなどのすべてが彼女との関わりをもったとされる。

 彼女が金融王の名で当時の金額で一万ドルの創設資金を寄贈した現代音楽を支援するコンセプトの「アメリカ作曲家連盟」の理事会のメンバーには、コープランド、プロコフィエフ、バルトーク、ストコフスキー、オネゲルなどが名を連ねている。その他、彼女が直接支援した作曲家のなかには、シェーンベルグ、アルバン・ベルク、ショスタコーヴィチなどが含まれている。事実はいざしらず、虚構の世界での話としても、なんとも豪勢なことである。 

 なお、この書は昨年、エルナン・ディアズの二冊目の長編小説として発表されたものだが、本年23年のピューリッツアー賞・フィクション部門を受賞し、すでに世界34言語での翻訳が決定しているという。


『トラスト -絆/わが人生/追憶の記/未来ー』 エルナン・ディアズ 
                 訳:井上 里   早川書房

 

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