勝手にそれは、海辺にあるとばかり思い込んでいたがそうではなかった。とはいえ、読谷村は波平集落、海からは数百mの箇所だから、まんざら間違いではない。駐車スペースの周りは、ザワワ、ザワワのサトウキビ畑であった。
ついでながら、機械化不可能で労働集約性が高く、収益も少ないサトウキビ生産は減少しつつあると聞いていたが、本島の中部南部ではけっこう目にする風景であった。
そこで車を降りて、少し急な階段を下ると、やや陰鬱な窪地の底へと至る。陰鬱な印象は、折からの好天にも関わらずここへはその陽光が届かず、私たち以外人影がなかったことにもよる。
その窪地の一隅に穿たれた洞窟がチビチリガマであった。
1944年末から始まったこの地区への空爆は45年の春先、つまり米軍による上陸を控え、一段と激しくなった。このチビチリガマは、波平集落の人たちの集団防空壕であった。
確かに、爆弾から身を守るには適した場所ではあった。しかし、4月1日は空爆ではなかった。アメリカ軍が上陸したのだった。そして米軍はこのガマへやってきた。
米軍は投降を勧めたが、「鬼畜米英」を叩き込まれ、「虜囚の辱めを受けるなかれ」(捕虜になるくらいなら死ね)と教えられていた島民たちはそれを拒否し、先鋭的な部分が竹槍をかざして「殺せ」「やっつけろ」「天皇陛下万歳」と口々に叫び米軍に襲いかかったが、たちまちにして銃撃された。
米軍はその日の説得を諦め、食料品や投降をすすめるビラをガマの前において立ち去った。
翌2日についてはWikiによればこんな具合だった。
「午前8時頃に再びアメリカ兵が来て、ガマから出るよう呼びかけるが、元日本兵の『出て行けば殺される』という言葉を信じ、ガマを出る者はいなかった。その後、娘から「殺して」と頼まれた一人の母親が、娘の首を包丁で刺した後、続いて息子を包丁で刺すと、自決する者が続出し、元日本兵が再び火を付けると、炎と煙がガマ内に充満した。煙で苦しむよりはアメリカ兵に撃たれて楽に死のうと考えた者はガマの外に出たことで助かり、都屋(読谷村の一つの字)の収容所に移送された」
チビチリガマにいたのは139名だったが、自決者数は82名(85名説も)にのぼり、その過半数は子供だったという。
一方、チビチリガマから数百メートル離れたシムクガマでも同様の展開があって、あわや竹槍をもっての玉砕戦法かあるいは集団自決かの寸前まで行ったが、かつてハワイへの移民経験がある住人が米軍と交渉し、抵抗しない限りその安全を保証するとの確認を取り付け、その結果、1,000名余の人命が救われたという。
この事例は対象的である。チビチリガマでは、大日本帝国の偏見と人命軽視の命令をリセットする機会を得ないまま、無駄に命を捨てさせられたということになる。
私たちは、チビチリガマの前で、持参したロウソクを灯し、しばし鎮魂の祈りを捧げた(下の写真の右下方がそのロウソク)。
これについては思い出す類似のシーンがあった。
ちょうど8年前の秋、現地で暮らし、すぐる日中戦争体験者の聞き取り調査を行っていた友人のOさんの案内で、中国は山西省、村人たちがヤオトンという横穴式の住居で暮らす賀家湾村を訪れたときのことである。
ここは日本軍のいわゆる三光作戦(奪い尽くせ、焼き尽くせ、殺し尽くせ)が展開された地で、やはり大規模な集団虐殺が行われた箇所があるというので、そこへでかけたのであった。
そこはけっこう大きめなヤオトンで、その奥には更に洞窟が続いていて、日本軍が来たというので273名の村人がこの場所に隠れたという。悲劇は1943年の12月19日から20日にかけて起きた。
そこを嗅ぎつけた日本軍は、ヤオトンの入り口に石炭の塊を積んで(このあたりは石炭の産地でもある)、収穫後の綿の木を積み上げ、さらに大量の唐辛子(どこの家にもたくさん吊るしてある)を乗せて火を放ったというのだ。
日本軍が去ったあと、他のところに隠れていた村人が駆けつけたのだが、結果として273名全員が燻し殺されていて、その遺体は見るも無残で、近親者すら恐れをなして近づけなかったほどだという。
そのヤオトンの前でも私たち同行者は、ロウソクと線香を立てて鎮魂の祈りを捧げた。
そして今回のチビチリガマ、戦争というものはかくも類似の悲劇を生み出すものであることがよく分かる。
ガマを離れて駐車場に戻ると、その周辺のサトウキビ畑が、南国の日差しの中に輝き、「命どぅ宝」とささやきあっているようだった。