以下は、映画、『バベル』についての論評です。
写真は、映画を待つ人々と、私が観たスクリーンです。
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ヤァウェは人の子らの建て始めた町と塔を見ていった。「見よ、彼らはひとつの民,ひとつの言葉(略)。さあ、われら下って行き、あそこでの彼らの言葉を乱し、仲間の言葉が通じないよううにすべし」(『旧約聖書』より)
この映画は、その題名といい内容といい、ディスコミュニケーションを題材にしていることは間違いない。
しかもそれは、グローバリゼーションの世界を背景としたものとして展開されるのだ。
ネタバレを恐れずいってしまえば、日本の狩猟家がモロッコのガイドに与えた銃が、その知り合いに渡り、それを撃った息子の弾がツアー中のアメリカ人の女性に当たったため、その留守を預かるメキシコ出身の家政婦が息子の結婚式に面倒を見ていたた子供たちを連れて参列し、その帰途事件に巻き込まれるといったことなどが大筋である。
監督はこの偶然的は事象の繋がりにディスコミュニケーションを見、さらにひとつひとつのエピソードにあるディスコミュニケーションに注意を向けようとする。
まず、全体的な構成からいえば、日本の絡みはほとんどその必要性がない。別役の役柄や、自死したらしいその妻については煩雑な雑音にしか描かれていないし、ディスコミュニケーションの象徴的存在である聾唖者の高校生の登場もあざとらしさという他はない。
なぜなら、彼女は、あの映画の中では、もっとも過剰にコミュニケートしていたからである。
百歩譲って、最もコミュニケート不能と思われる聾唖者が、最もコミュニケートしうるのだという主張があの監督にあるのだとしたら、それはそれである別の構成が可能なのであり、現実のあの映画全体の構成は破綻しているとしかいいようがない。
監督の主張はなんなのか。世界はこのようにディスコミュニケーションに充ち満ちていますとということなのか。そしてその解消を裸の女子高生に託すのか。
そうだとしたら、それは短絡でしかない。
この映画が、決定的に見落としているのは、私達が直面しているこの事態は、決してコミュニケーションの齟齬によるものではないということのだ。
ようするに、言語が一元化され、その意味が統合されコミュニケーションが緻密になりさえすれば解消するものではないのだ。
言語、あるいは聾唖者が使う手話やその他の記号も含めて、それらは、決して一元的意味を担うことは出来ない。
これには二つの意味合いがあって、ひとつは言語学的、かつ哲学的なものであり、シニフィアンの持つ現実的物質的側面の特性ともいえるのだが、それはこの際、棚上げにしよう。
ただしひとついえるのは、冒頭に掲げた引用のバベルの町のように、世界中の人が同一の言語と意味作用を共有するならば(あるいはそれしか持ち得ないならば)、私達は人工知能という唯一普遍のものを分有する部品でしかないのであり、バベルの塔を崩壊させた神は、賢明にも、人の無機的機械化を防いだのかも知れないということである。
これは神の利にかなうことでもある。意味作用の完膚無きまでの一元化を果たしたひとは、もはやそれ自身神同様のまったき一元性の世界に座を占めるからである。多元性なき無機的存在者は、神を崇める必要もその術をも知らない。
少なからず脱線したが、言語や記号の持つ意味作用は、未来永劫、決して一元化されることはない。
だからこそ、出来事や個別は存在し、法則から逸脱した歴史は存在しうるし、意味の余剰としての芸術も存在しうる。
それらの逸脱を、政治的権力でもって規制しようとしたのが,ファッシズムやスターリニズムであることはいまさらいうまでもあるまい。そしてその破綻の歴史も・・。
映画に戻ろう。モロッコの家族と警察の齟齬、アメリカとメキシコの国境における事態のねじれ、これらは決して単なるディスコミュニケーションではない。それが、現実のリアルなコミュニケーションのありようなのだ。
そして、現今のグローバリゼーションは、そうした一見齟齬とも思われるものをも内包しながら、世界を、そのリアルポリティクスに即した平準化として政治力学の内に組み入れて行くのである。
そこには、ディスコミュケーションなどははい。強者の支配的コミュニケーションがあるのみである。
私達はバベルの塔の崩壊と、それによる言語の意味作用の分裂の中にあることは不可避なのである。だから、この映画のように、「この世にはいろいろなディスコミュニケーションがありますよ」といわれても、「で、どうしたの」というに留まるのである。
繰り返すが、ディスコミュニケーでょンなどない。あるとすれば、それが常態なのである。問題は、世界を強者によるコミュニケーションが席巻しようとしているとき、私達がそれにどのようなコミュニケーションを対置しうるかであって、コミュニケーション一般の喪失などという泣き言を映像として並べることではないのだ。
ついでながら、チラチラとお毛毛を見せたり、ヌードになるぐらいの菊池凛子が、アカデミーをとるぐらいなら、伝説のストリッパー一条さゆりにはノーベル賞が与えられて然るべきである。
写真は、映画を待つ人々と、私が観たスクリーンです。
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ヤァウェは人の子らの建て始めた町と塔を見ていった。「見よ、彼らはひとつの民,ひとつの言葉(略)。さあ、われら下って行き、あそこでの彼らの言葉を乱し、仲間の言葉が通じないよううにすべし」(『旧約聖書』より)
この映画は、その題名といい内容といい、ディスコミュニケーションを題材にしていることは間違いない。
しかもそれは、グローバリゼーションの世界を背景としたものとして展開されるのだ。
ネタバレを恐れずいってしまえば、日本の狩猟家がモロッコのガイドに与えた銃が、その知り合いに渡り、それを撃った息子の弾がツアー中のアメリカ人の女性に当たったため、その留守を預かるメキシコ出身の家政婦が息子の結婚式に面倒を見ていたた子供たちを連れて参列し、その帰途事件に巻き込まれるといったことなどが大筋である。
監督はこの偶然的は事象の繋がりにディスコミュニケーションを見、さらにひとつひとつのエピソードにあるディスコミュニケーションに注意を向けようとする。
まず、全体的な構成からいえば、日本の絡みはほとんどその必要性がない。別役の役柄や、自死したらしいその妻については煩雑な雑音にしか描かれていないし、ディスコミュニケーションの象徴的存在である聾唖者の高校生の登場もあざとらしさという他はない。
なぜなら、彼女は、あの映画の中では、もっとも過剰にコミュニケートしていたからである。
百歩譲って、最もコミュニケート不能と思われる聾唖者が、最もコミュニケートしうるのだという主張があの監督にあるのだとしたら、それはそれである別の構成が可能なのであり、現実のあの映画全体の構成は破綻しているとしかいいようがない。
監督の主張はなんなのか。世界はこのようにディスコミュニケーションに充ち満ちていますとということなのか。そしてその解消を裸の女子高生に託すのか。
そうだとしたら、それは短絡でしかない。
この映画が、決定的に見落としているのは、私達が直面しているこの事態は、決してコミュニケーションの齟齬によるものではないということのだ。
ようするに、言語が一元化され、その意味が統合されコミュニケーションが緻密になりさえすれば解消するものではないのだ。
言語、あるいは聾唖者が使う手話やその他の記号も含めて、それらは、決して一元的意味を担うことは出来ない。
これには二つの意味合いがあって、ひとつは言語学的、かつ哲学的なものであり、シニフィアンの持つ現実的物質的側面の特性ともいえるのだが、それはこの際、棚上げにしよう。
ただしひとついえるのは、冒頭に掲げた引用のバベルの町のように、世界中の人が同一の言語と意味作用を共有するならば(あるいはそれしか持ち得ないならば)、私達は人工知能という唯一普遍のものを分有する部品でしかないのであり、バベルの塔を崩壊させた神は、賢明にも、人の無機的機械化を防いだのかも知れないということである。
これは神の利にかなうことでもある。意味作用の完膚無きまでの一元化を果たしたひとは、もはやそれ自身神同様のまったき一元性の世界に座を占めるからである。多元性なき無機的存在者は、神を崇める必要もその術をも知らない。
少なからず脱線したが、言語や記号の持つ意味作用は、未来永劫、決して一元化されることはない。
だからこそ、出来事や個別は存在し、法則から逸脱した歴史は存在しうるし、意味の余剰としての芸術も存在しうる。
それらの逸脱を、政治的権力でもって規制しようとしたのが,ファッシズムやスターリニズムであることはいまさらいうまでもあるまい。そしてその破綻の歴史も・・。
映画に戻ろう。モロッコの家族と警察の齟齬、アメリカとメキシコの国境における事態のねじれ、これらは決して単なるディスコミュニケーションではない。それが、現実のリアルなコミュニケーションのありようなのだ。
そして、現今のグローバリゼーションは、そうした一見齟齬とも思われるものをも内包しながら、世界を、そのリアルポリティクスに即した平準化として政治力学の内に組み入れて行くのである。
そこには、ディスコミュケーションなどははい。強者の支配的コミュニケーションがあるのみである。
私達はバベルの塔の崩壊と、それによる言語の意味作用の分裂の中にあることは不可避なのである。だから、この映画のように、「この世にはいろいろなディスコミュニケーションがありますよ」といわれても、「で、どうしたの」というに留まるのである。
繰り返すが、ディスコミュニケーでょンなどない。あるとすれば、それが常態なのである。問題は、世界を強者によるコミュニケーションが席巻しようとしているとき、私達がそれにどのようなコミュニケーションを対置しうるかであって、コミュニケーション一般の喪失などという泣き言を映像として並べることではないのだ。
ついでながら、チラチラとお毛毛を見せたり、ヌードになるぐらいの菊池凛子が、アカデミーをとるぐらいなら、伝説のストリッパー一条さゆりにはノーベル賞が与えられて然るべきである。