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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

アートでない人が読む『アート・ヒステリー』(大野左紀子) Ⅱ

2012-10-08 03:06:03 | アート
 さて、大野さんの著書、『アート・ヒステリー』(河出書房新社)に触発された感想ですが、いろいろ「死」について考え込んでいる友人とのメールのやり取りなどあってすっかり遅れてしまいました。

            
 
 その第二章は「図工の時間は楽しかったですか」という問いかけになっています。
 その問に素直に答えるとすると私の場合は楽しかったのです。図工、音楽、体育はどちらかというと楽しかったのです。それに給食も(笑)。
 なぜかというと、その他の科目はいわゆる学であり、何らかの知を体系的に習得しなければならなかったからですが、その点、図工、音楽、体育は幾分遊びのような感じで楽しめるように思ったからです。

 ただしこれらの科目もそれほどお気楽なものでなかったことはこの第二章を読むとよくわかります。近年だけでいっても、「ゆとり教育」の是非などいわゆる一般の「教育論争」とも決して無縁でなかったことが様々な資料を駆使して語られています。
 これらのアートと教育という相互の視点からの資料の整理と展開には説得力があり、いろいろと教えられました。
 
 にも関わらず、私がお気楽に図工を享受していたのは思うに私の少年時代が戦後の混乱期で(昭和二〇年国民学校入学)、図工の教育方針にまで手が回らないアナーキーな時代だったからかも知れません。当時の図工の教科書というものをどうしても思いだすことができませんから、著者も触れているように、そんなものはやはりなかったのだと思います。
 図工の教科書といえば、私の少し上の世代にはいわゆるお手本帳があって、うさぎや馬やとんぼなどのお手本が載っていて、それを見ながら描くというより引き写すのですが、私の時代にはそれすらもなく、それがとても欲しかったのを覚えています。

 教師もほとんど戦場にとられていましたので、代用教員ばかりで、図工の指導といったものをされた記憶はほとんどありません。彼女(代用教員は女性が多かった)たちもまた、何を教えていいかわからなかったのではないでしょうか。
 第一、画材そのものがなかったので、褐色のわら半紙に鉛筆で何かを描くのみでした。クレヨンというものを手にしたのはしばらくしてからです。
 ついでながら、音楽の時間も学年にたった一つしかないハーモニカの回し吹きで、前のやつが青洟など垂らしていると、受け取ってから自分の服の袖で必死に拭いてから口にするのでした。

 先にも触れましたが、こうした私の無邪気な(?)図工の受容にもかかわらず、その背後にはわが国開国以来の図工、ならびに美術教育一般の紆余曲折の経緯があったことがよくまとめられています。
 これはまた、美術を教えるということはどういうことなのか、そこで何を教えるのかが私が享受した「アナーキーで虚妄な自由」をも凌駕して検討されていたことがよくわかります。

 なおこの章の末尾にある「金子・柴田論争」なるものは、これまでの美術教育の歴史的経緯を象徴すると共に、教育論にとどまらず、美術(の伝達)というものへのある種の姿勢についても問うところがあるように思うのですが、余裕があれば後述いたします。

 さてさて、またしてもだらだらとした感想の羅列で、第二章にとどまったままなのですが、私よりもずっと後の時代に美術教育(図工)を受けた人は、自分の往時の経験と、ここでの大野さんのレポートとを付きあわせてみると面白いと思います。

 というようなわけで(どんなわけだ?)、私の文章はまたしても完結しません。
 したがって次回へとズレこむのですが、次回はこの書の最終章、第三章の「アートは底の抜けた器」と題されたものへと進みます。どうやらこれは、いわゆるアートへの離縁状のようなもの、とりわけ、著者大野さんがアーティストから卒業(逸脱?脱落?)してゆく過程を示すようでスリリングではないかと思います。

 長くなってゴメンナサイ。では、またね、
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「死ぬということ」 友人への返事(Ⅱ)

2012-10-07 14:40:57 | よしなしごと
 昨日書いた友人へのメールに、「死を考えることは悲観的で、生を考えることは楽観的では」ということをほのめかす返事が来ましたので、それへの返信を書きました。

               

 Sさん 私の書いたものに付き、楽観・悲観の対比で誤解があるといけませんので補足させて頂きます。
 ハイデガーとアーレントを引き合いに出しましたが、一般に「死の哲学者」と言われている前者が悲観的で、「始まりの哲学者」と言われている後者が楽観的なわけではありません。

 むしろ、「死に先駆けて本来性を生きる」とする人達のほうがおのれの信ずる「本来性」、例えばある政治的な立場などを選択し、そこに安住し楽観的でいられることが多々あるのです。特攻隊員がそうした書で自己に課せられた理不尽な死を受容するという話も読みました(これらがハイデガーの本意に即するかどうかはひとまず置いておきます)。

 逆に、おのれの生が日々「始まり」だとするならば、そこに本来性などというものはありません。まさに手すりなき道を他者と出会いながら一歩一歩進むのみです。
 この場合には、悲観とか楽観を越えた境地を生きるということだろうと思います。

 私の好きな言葉に、「セ・ラ・ヴィ」というのがあります。直訳すれば「これが人生だ」で諦観としても使われたりしますが、私の場合には、どこかにおのれの本来の生き方のようなものがあって、そこから自分は逸脱しているのではと考える(いわゆる「疎外論」ですね)のではなく、まさにこれこそが、おのれが選びとってきた生そのものに違いないのだし、これ以外にないのだといった意味に受け止めています。

 これは死にもいえることで、「本来的な死」などありようもなく、また誰も私の死を死んでくれるわけでもないのですから、死の瞬間にも「これぞわが死」といって死ぬことが出来ればいいと思っています。
 ただし、これは「これぞわが生」の続編ですから、おのれの生を悲観的にせよ楽観的にせよ、ある囲いの中で飼育されたかのように考える立場とは無縁です。

 手すりなき生と手すりなき死、それあるのみではないかと考えています。
 おや、振り出しに戻ってしまったかも知れませんね。


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アートでないひとが読む『アート・ヒステリー』(大野左紀子)

2012-10-06 16:41:38 | アート
              

 大野左紀子さんの『アート・ヒステリー』(河出書房新社)を読みました。

 本来アートとはさほど縁のない人間だと思っています。
 それでもビックネームの美術展があったりすると観に行ったりすることがあります。
 それもさほど頻繁ではありません。
 それが現代アートになればいっそう疎遠となります。
 最近では、ジャクソン・ボロックやマックス・エルンストを観た程度です。
 それも、親しい人からチケットを頂いたからで、そうでなかったら自分で見に行ったかどうかはいささか心もとないものがあります。
 それでもしばらく前には、アンディ・ウォーホルやルネ・マグリットも見たことがあります。
 デュシャンへの関心は美術というより、現代思想絡みの文脈においてでした。

 そういえばこの書で取り上げられている「ゲリラ・アーティスト」のバンクシーが監督をした『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』という映画も観ています。
 これは面白かったですね。真贋(そんなものがあるのだろうか?)が入り乱れて、ついにはこれを撮ったバンクシー自身の立脚点そのものにも迫るという皮肉な構成は、つまるところ、現代アートというものの「二次性」、そしてそうであるがゆえの危うさのようなものを示しているように思いました。
 念の為にいっておけば、現代アートならずともあらゆる芸術がそうした「二次性」を含むものでしょうが、それらが顕著なのはやはり現代アートにおいてだろうと思います。
 どこかで、既存の作品のコピーを濡らして乾かしただけで自分の作品と称している「アーティスト」への非難を読んだことがありますが、それなら私にもできそうな気がしたものです(そんなことをする気は毛頭ありませんが)。

 とまあ、「教養主義」的にしか関わっていないのが実情ですが、しかし、上に述べたようにこちらから意識的に接近したのはすべて西洋の作家だといえます。
 もちろん、荒川修作や草間彌生のものなどは観ようとしなくとも視界に飛び込んでくるのですが、あえて注視する機会は少ないのです。村上隆のものも、図鑑やネットでは見ていますが、こちらから観に行こうとはしません。その作品で、一昔前の永井豪のマンガ『ハレンチ学園』をさらに進化させたような『マイ・ロンサム・カウボーイ』というフィギアが、ザザビーで約16億円で落札されたというニュースも、まさにニュースであってアートの問題としてはピンとこなかったのが正直なところです。
 こうした西洋偏重も、この著者の大野さんにいわせれば「父」への拝跪ということなのかもしれませんね。
 
 こんな私をこの書へ誘うのはその帯に書かれたこんな言葉かもしれません。
 「何なの?これ」「アート」「え、こんなことやっていいの」「うん、だって、アートだから」
 そして裏表紙の帯には「こんな人に読んでほしい!」とあって4項目ほどが挙げられているのですが、私の場合は強いていうとその4番目の「《普通》を選んでいるにもかかわらず《ちょっと謎めきたい願望》を抱く社会人」に相当するでしょうか。

 本書の第一章は「アートがわからなくても当たり前」と、ひとまずは私のような門外漢を安心させる仕掛けになっています。
 わからないものの代表としてピカソ、ないしはピカソ的なものが挙げられているのですが、これについて私はとても恥ずかしい思い出があります。
 もうずいぶん前ですが、何気なしに入った画廊でハガキ大のピカソのリトグラフか何かが展示されていました。黒一色で、私たちがボールペンのインクの出が悪いとき、傍らの紙にクシャクシャクシャと矢鱈に線を書いてみるような、まあ、いってみれば落書きのようなものです。
 しかし、それはとても魅力的でした。何が魅力的かというと、その作品ではなく価格でした。
 その作品の下には「10,000」と記されていたのです。
 ピカソの絵が一万円!それだけ出せば私もピカソの絵が持てるんだ!
 私は大いに逡巡しました。
 しかし、やや冷静になって考えるに、どうもおかしいのではないかと思えるのです。
 そこでもう一度よくあたりを見渡しました。
 すると、なんとすぐ横に「表示した価格は千円単位です」とあるではありませんか(あえて計算はしません。ご自分でどうぞ)。

 私の中で恥ずかしさが込み上げてきました。こうしたものの相場というかそうしたものに暗いということに対してではありません。
 たぶん、これが道端に落ちていても、「なんだ子供の落書きか」と拾いあげても見ないようなものに、「ピカソ」という名がついているだけで大枚一万円を払おうとしたおのれの浅ましさについてです。
 それ以来、アートと聞いただけでへっぴり腰になるのですが、反面、「価格」の権威からは免れてそれらを観るきっかけにはなったように思います。

 脱線の多い感想文ですが、本書の方に戻りましょう。
 この第一章では「アートがわからない / わかる」がどのような背景で語られるのかが述べられます。
 それは、著者がアーティストであった経歴、アートの教育に携わっていたことなども踏まえながらも、決してアートの範囲内からのみではなく、わが国への美術導入の歴史的経緯、美術をめぐる社会経済的な要因、さらには心理学的な要因(これについては後述の予定)などなど、さまざまな切り口から問題の所在を示してくれます。
 例えば、つい最近問題化している大阪の橋下徹市長と在阪の文化施設(文楽、オケ、児童文学館など)との関連といったアクチュアルな問題も登場します。
 そこで私たちは、「なるほど、一口にアートといってもそうした背景のもとに私たちに提示されているんだ」と納得するわけですが、まだ、「わからない / わかる」の問題が解けたわけではありません。

 そこで著者は、私たちの受けてきた美術に関する教育の問題へと遡行するわけです。
 そんなわけで、第二章のタイトルは「図工の時間は楽しかったですか」ということになるのですが、私の悪癖が出てまただらだらとした文章になってしまいました。
 この続きは改めて書くことにします。
 しかし、書きかけてはみたものの、別に見通しのある文章ではありませんので、またまた考えながら書いてゆきます。したがってその行方は杳としてわかりません。
 ただヨイショではなく、出来ればちょっとした「イチャモン」などもつけてみたいと思っています。 (つづく)
 





 

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「死ぬということ」 友人からのメールへの返事

2012-10-06 02:28:24 | よしなしごと
 以下はある友人から来たメールへの返事です。
 いささかしどろもどろですが、それが私の実情なのです。


           

<前略>
 二番目の「死」についてのご質問に適切にお答えすることは難しいですね。
 というのは、私自身、いい歳でありながら、それらとちゃんと向き合うことなく、ノンベンダラリンと生き続けているからです。
 加えて、「死」はまさに自分固有のもので、ある種の規定に添って死ぬことなどできないと考えているからです。
 ですから、これから述べることも、何ら一般性のない私の漠然とした想念にほかなりません。

 私たちは死について明確な表象をもつことはできません。
 というのは誰も死を経験したことはないからです。
 臨死体験というのがあるのだそうですが、それはある種の心理的な陥穽のようなもので、だいいち、「霞のようなものが晴れると急にお花畑が現れて・・・」などという話を聞かされても何の役にも立たないだろうと思います。

 といったわけですから、私たちは先人が語った死に関するものの中から、いくぶんたりとも腑に落ちるものがあれば、それを吟味するほかないわけです。

 一般に動物は死なない、その生を終えるだけだと言われたりします。
 それは動物が自分が死ぬということを知らないからです。
 なぜかというと動物には時制(過去・現在・未来)というものがないからだといわれます。
 ですからひたすらに「いま」を生きているのみです。
 しかもその「いま」は人間の「現在」とも違います。
 人間の「現在」は「過去と未来の間」にあるものだからです。

 動物にも過去の経験に依拠したり、未来を考慮しているようにみえる行為が観察されます。
 しかし、それらは彼らの意識のうちというより遺伝子に書き込まれたものだと推測されます。彼らとしてはそれも含めてひたすら「いま」を生きているのだということでしょう。
 これらのことから、過去・現在・未来をおもんばかることこそがいわゆる「意識」と大きく関連し、それが人間と動物を分かつものといえるかも知れません。

 ところで、動物は煩悩を持たず人間のみがそれを持つとすれば、それは上に述べたことと関連するだろうと思います。ようするに人間は過去を悔やみ、未来を憂う存在だということです。それはまた自意識をもつということ(他者をもつということ)でもあるでしょう。

 禅の修行というものはよく知らないのですが、そうした自意識のもつ拘束性のようなものを断って、「なぜなし」にただあることを承認するということではないかと思っています。浄土宗系の他力本願もまた、その自意識の強度による救済ではなく、大いなる者への同化としての他力の推奨であろうと思います。

 上に述べたことといくぶん関連しますが、ハイデガーという人は人間のみが死を知るということ、そして時制のうちにあることを踏まえて、死に先駆けて本来的な生を生きろと説きました。
 本来的な生とは日常的なおしゃべりやゴシップの世界、世常にのみ込まれない生き方のようですがそれが何であるかはわかりません。ハイデガー自身はそれを、チンタラした日常から飛躍するかに見えた当時のナチズムのうちに見てしまったことがあります(このハイデガーについての概括は極めて粗っぽいものですからあまり信用しないで下さい)。

 こうしてハイデガーは「死に先駆けて生きる」ことを説いたのですが、その弟子にして不倫相手だった(このへん実に週刊誌的ですねぇ)ハンナ・アーレントは、後年これとは違う立場をとります。そりゃあそうでしょう、いくら惚れていて尊敬する相手とはいえ、ナチズムへの同化はアーレントの許容の範囲を超えていました。なぜなら、アーレントはユダヤ人であり、一度は収容所に送られながらそこを脱出してアメリカへ亡命するという経験をしたのでした。

 ですからアーレントはその師から多くのものを学びながら、死生観においては違うベクトルから迫りました。
 彼女はいいます。
 「確かに人間は死ななければならない。しかし、人間は死ぬために生まれてきたのではない」
 ですから彼女は人間の生誕、始まりに注目します。
 一人ひとりの人間の生誕は、新しい自由の開けへの可能性であるというのです。
 新しい人、彼女や彼がこの世にデビューするということは、新たな自由の可能性の開けであるというのです。
 それはこの世界にとっての更新であると同時に、そこへと参入する諸個人にとっても第二の誕生だというのです。この世界にとっては「第二の創造」、つまり人間が自分たちの意志で世界を創ってゆこうとすることであり(もちろんそれが常に可能であるということではなくそれを試みるということです)、それへ参加する人にとっては動物的、生物学的生(ゾーエー)として生きることから、活動的な生(ビオス)を生きることだというのです。
 もちろん、アーレントのいう「始まり」は生物学的生誕にとどまらず、日々私たちの「始まり」でもあります。

 この両者ともに「死」は前提になっています。
 しかし、そのベクトルは違います。「死ぬから生きろ」というのと「生まれたことを噛み締めて死ぬまで生きろ」という違いのようなものです。

 どうやらご質問の趣旨とは大きくずれたようですね。
 しかし私は今のところ、こんなことしかいえないのです。
 いずれにしても死は流通や交換不可能なものですから、私たちはおのれの死を見つめるほかはないと思います。
 ただし、死は「絶対的な他者」ともいえるものですから、どんなに私たちがそれを考えても、ある日するりとそれをすり抜けてやってくるようなものだと思います。

 

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久々の川柳モドキです。

2012-10-05 02:42:24 | 川柳日記
       
               綿の花と蕾

        【触る】
         壊れても触ってほしいシャボン玉        
         触れるが触れば終わる距離にいる        

        【宿】
         宿酔いの月ふたつみつよついつつ
         やどかりにやどをとられたかいである

        【肩】
         肩幅の道を抜けたら逢えますか
         なで肩はやめた 今日からいかり肩

       
          赤と白で源平草 よくも名付けたものだ    

        【雑詠】
         これまでのことは忘れてたまご閉じ
         ぽっこりとわたしに似合う昼の月 
         虹色にしたいわたしが這った跡     
         この人があの人になり衣替え   
         ひまわりがうなだれ夏の戦後処理      


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【ある逃避】秋めいた空と白い曼珠沙華

2012-10-03 03:12:57 | 写真とおしゃべり
 ご政道むきのことは一段とグロテスクになってきたようです。
 二大政党の党首選といい、その後の組閣といい、はたまたどんどん曖昧になり民意とかけ離れてきている核政策といい(一方で脱原発を言いながら、一方で建設中止だったものにゴーサイン。なに?このデタラメさ)、もううんざりといったところです。
 おまけに西の方からは八策だか窮策だとかを担いでいろいろちょっかいをかけるひとがいて、しかもその言い分も朝令暮改でコロコロ変わると来ては、もういい加減にしなはれといいたくなります。

 これじゃあ「右も左も真っ暗闇じゃござんせんか」(このセリフ、鶴田浩二だとわかるのはかなり昭和なひと)ですね。
 で、このいい加減さと不透明さ、そしてなんともいえぬ不快な居心地の悪さにたまりかねて、しばし自然へと逃避を決め込んでいる次第です。本当はいけないのでしょうが、相手がお化けのような連中ですから暖簾に腕押し、糠に釘といった塩梅で当面は仕方がないと思っています。
 その内にシャンとして反撃をなどと考えていますが、今のところはやっと訪れた秋のお話など。

 相変わらずの下手な写真ですが、テーマは「秋めいた空と白い曼珠沙華」です。                               
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棄てられる短編  時差・2

2012-10-01 14:10:06 | インポート
 昨日の続きですが、これのみお読みいただいても結構です。
 またこれを先にお読みいただいて昨日のものをお読みいただいても自由です。


            

         時差              六文銭太郎


(承前)
 家を出たのは通常の時間だった。
 ほんとうは向こうへ着いてから、いつのも仕事の前にしなければならないことがあったので少し早めに出なければならなかったのだが、つい、いつもの時間になったてしまったのだ。
 まあ少しとばせばなんとかなるだろうと車を走らせた。

 いつもの交差点が前方に見えた。直進の黄色が消え、右折の矢印が出て二、三台の車が右折をし始めたところだった。
 「間に合うだろうか」
 と自問した。その時、通常の仕事の前にするべきことがったのが頭をかすめた。
 「間に合わせよう」
 アクセルを踏んで加速し、突っ込んでいった。
 交差点の少し手前で信号が黄色になり矢印が消えた。
 少しひるんだが
 「まだ間に合うはずだ」 
 という判断が勝り、さらに加速した。

 ハンドルを右に切り続けると、タイヤが不気味にきしみ必死に路面を捉えようと甲高い悲鳴を上げた。
 「よし、もう少しで曲がりきれる」
 と安堵しかかったとき、視界にいち早く飛び出してきた大型トラックが迫ってきた。
 「あっ」
 とばかりに渾身の力でブレーキを踏んだ。
 結果的にはそれが良くなかったのだろう。
 車は完全にコントロールを失って、吸い込まれるように大型トラックの前部に接近していった。

 「どこかで見た風景だ」
 という思いが頭をかすめたが、思い出す間もなく、大型トラックのボディが視界全体に広がり、いままで経験をしたことのない衝撃が全身を貫いた。
 一度痛打した頭部が不自然にねじ曲がった。

 その時、確かに見たのだ。
 大型トラックに遅れて一台の乗用車が止まっていて、その運転席で満面の恐怖と驚愕をたたえて自分のほうを見ているもうひとりの自分を。

 そしてそれが最後に見たものであった。
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