5月12日、校下の人たちと大垣祭りに出かける。
この祭りは私にとって思い出深いものがある。5歳の折、大垣郊外へ疎開した私にとって、その集落の鎮守の森のお祭りなど、細やかなとはいえ温かみのある祭りは経験していたものの、より規模の大きな、近郷近在から人が集まるような祭りは、この大垣祭りが初めてだったからだ。しかもそこで初めて山車(だし)というものを見た。 敗戦後、少し落ち着いてだから1946年か47年だったろう。まだ、父はシベリアへ抑留されたまま、その生死すらわからない頃で、母と二人で出かけた。駅前通りに勢揃いした山車は、それぞれのからくりや芸などを披露していた。
私の印象に残ったのは、瓢箪鯰という出し物のそれで、瓢箪で鯰を捕らえようとするのだが、鯰はのらりくらりと逃げ回るというものだ。だいたい、あの小さな瓢箪の口に鯰が入るわけがない。にも関わらずそれでもって鯰を執拗に追いかけるというそのシュールな滑稽さにすっかり心惹かれた。
この瓢箪鯰、後年、改めて調べたら、その「捕らえようのなさ」から「要領を得ない者」を指すとして、大津絵などでは猿が瓢箪で鯰を抑えるという絵柄で風刺画の題材にされ、浮世絵などでも描かれたという。ここに載せたのは歌川国貞によるものである。
肝心の大垣祭りだが、12日は不幸にして天候に恵まれず、雨自体は強くはなかったのだが、横殴りの風を伴うもので、本来なら各町内から巡行で引き回された13基の山車が所定の歩行者天国で勢揃いするはずだったが、その巡行自体が中止になってしまった。
ただし、各町内の山車蔵での屋内公開はしているという。
この祭りは私にとって思い出深いものがある。5歳の折、大垣郊外へ疎開した私にとって、その集落の鎮守の森のお祭りなど、細やかなとはいえ温かみのある祭りは経験していたものの、より規模の大きな、近郷近在から人が集まるような祭りは、この大垣祭りが初めてだったからだ。しかもそこで初めて山車(だし)というものを見た。 敗戦後、少し落ち着いてだから1946年か47年だったろう。まだ、父はシベリアへ抑留されたまま、その生死すらわからない頃で、母と二人で出かけた。駅前通りに勢揃いした山車は、それぞれのからくりや芸などを披露していた。
私の印象に残ったのは、瓢箪鯰という出し物のそれで、瓢箪で鯰を捕らえようとするのだが、鯰はのらりくらりと逃げ回るというものだ。だいたい、あの小さな瓢箪の口に鯰が入るわけがない。にも関わらずそれでもって鯰を執拗に追いかけるというそのシュールな滑稽さにすっかり心惹かれた。
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この瓢箪鯰、後年、改めて調べたら、その「捕らえようのなさ」から「要領を得ない者」を指すとして、大津絵などでは猿が瓢箪で鯰を抑えるという絵柄で風刺画の題材にされ、浮世絵などでも描かれたという。ここに載せたのは歌川国貞によるものである。
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肝心の大垣祭りだが、12日は不幸にして天候に恵まれず、雨自体は強くはなかったのだが、横殴りの風を伴うもので、本来なら各町内から巡行で引き回された13基の山車が所定の歩行者天国で勢揃いするはずだったが、その巡行自体が中止になってしまった。
ただし、各町内の山車蔵での屋内公開はしているという。
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この上下合わせて13基の山車が勢揃いする予定だったが・・・・
そこで、中心街に近い数カ所の山車蔵を観て歩いた。京都や飛騨高山のそれらに比べると、その絢爛豪華さではかなわないが、そのそれぞれが、戦火などの歴史の苦難を乗り越えて存続してきたという伝統の重みを持っている。
それら一つ一つを説明していると長くなるので、私自身が面白い体験をしたもの一つを紹介しよう。
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それは菅原山車、別名天神山車といわれるもので、名前からして菅原道真にちなんだ山車で、この学問の神様にちなんだ山車のからくりは、手に筆を持った人形が、相手が掲げるA4ほどの大きさの額の白紙に、文字を書くというものだが、その文字が決まったものではなく、第三者のリクエストに応えてどんな文字でも、また短い熟語でも書くことができるというのがみそである。
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ここまで来ると、歯車やゼンマイを用いた自動人形では不可能で、その人形の所作を操作する人の業がものをいう。しかも、直接人形の腕を持ってするのではなく、人形の下の段(普段は覆いに隠されている)からの紐や棒を使ったリモート操作だから、大変な熟練を要する。
この山車蔵では、山車に積むその部分を特に降ろして、その操作の過程を公開していた。しかも、その書く文字を観衆からのリクエストに応じるという。私の前の人が、「和」という文字をリクエストしたのに対し、私は意地悪く、画数の多い「愛」を依頼した。
お囃子のテープをバックにそれらが書かれてゆく。対面する白紙の額を掲げた人形に対面する操作手が、慎重な操作で文字を書く。やがて「和」の文字が墨色鮮やかに書かれる。ただ書かれたというだけではなく、偏と旁のバランスもよく、書かれた文字に味がある。
続いて、私の「愛」の文字。見守る観衆の中で、私がいちばん緊張し、固唾をのんでそれを見ていたと思う。操作手の慎重で繊細な動きのうちに、人形の持つ筆が意志ある人のそれのように動き、白紙に文字が浮かび上がって来る。
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何分ぐらいかかったろうか。「愛」の文字がくっきりと浮かび上がったとき、私の肩に入っていた力がフッと薄れた。書かれた文字が、額からツッと離れてひらひら舞う。実はこれは、額を持っている人の方の操作で、この人は文字の書かれる間、額をホールドするとともに、書き終わった際、それを取り外す操作をしているのだ。
で、そのヒラヒラ舞って落下した「愛」の書かれた紙であるが、それはリクエストした者に与えられるというので、ありがたく頂いてきた。感謝の印に近くの賽銭箱にジャランと硬貨を投げ入れるのを忘れはしなかった。
写真のように、文字の均整がちゃんととれているところへもってきて、その線が均一ではなく凹凸があることに、操り人形を介して書かれたというなんともいえない味がある。
たまたまもっていた他の紙に挟み、丸めて皺にならないように持って帰った。色のついた紙をバックにして、部屋に飾ろうと思っている。
幼かった私が、戦中戦後の苦難の時代を過ごした大垣の祭りのモニュメントとして部屋に掲げておこうと思う。
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山車蔵巡りをしているうちに午後になり、風雨がやや激しくなってきた。同行してきた人たちとはかり、帰途につくことにした。
しかしこのとき、主要部分をビニールで覆った一基の山車が、果敢にも遊歩道へと引き出されてきた。その山車は伝馬町の松竹山車。この山車は見ものが二層に分かれ、上部では弁財天のからくり人形が舞い、変身するという所作を行うのだが、下部の舞台では、着飾った子どもたちの舞踊が披露されるという唯一多用性をもった山車である。
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早速駆けつけて写真に納める。舞台では着飾った子どもたちが舞踊こそしないものの、ちゃんと乗っている。せっかくこの日を迎えた子どもたちのためにも、無理をして山車を出動させたのだろうか。
しかし皮肉なことに、その頃から風雨は一層強まった。松竹山車は、後ろを跳ね上げるような独特の仕方で辻を曲がり帰っていった。
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大垣の街は、天候に恵まれた日に、もう一度訪れたい。最初に祭りの概要を掴むために入った大垣郷土館で買った諸施設の通しの入場券はまだ生きていて、「大垣城」や「奥の細道結びの地記念館」、そして「守屋多々志美術館」への入場が可能なのだ。
【おまけ】考えてみたら大垣は 、私の人生経験の早い段階でのエポックメイキングな時を過ごした土地である。戦中の国民学校への入学、襲い来る空襲、 敗戦の玉音放送、その後の混乱、父の消息不明のままの母子家庭、遅いくる貧困と食の問題などなど。
ただし、正確には飢えはなかった。田舎暮らしで母屋は安定した農家で手伝いの報酬がもらえ、周辺の山野には食用になる野草やきのこ、藪の脇に生える筍、時としては松茸山の柵の外でとれた極上の松茸などもあった。
川や池で捕れる魚介類も貴重なタンパク源であった。ときには、純天然のうなぎまで口にすることがあった。農薬など使っていない時期、どこで何をとって口に運んでも安全であった。思い出は尽きない。
今回の絡繰りで文字を書くなんぞは驚きです。そのからくりを説明されているにもかかわらず、どんなふうになっているのか、ただ熟練の技術がなせる業なのでしょう。
「文字書きからくり」、正面からその仕掛けも含めて見ていたのですが、どうしてあのように書けるのかはよくわかりませんでした。
説明の方によると、この伝統を絶やさないようにするため、複数の書き手の鍛錬をしているのですが、このリモート操作はとてもとても難しく、私に「愛」を書いてくれた人が今のところナンバーワンのようです。
こうした文字書きの芸では、昔サーカスで見た、下の力技担当の人が足で支える障子に、書き手が口や脚などで、「恋しくばたずね来てみよ和泉なる志の田の森のうらみ葛の葉」を達筆で書き上げるというものがあったのですが、今でもあるのでしょうか。