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以下は中国に在住している私の友人の記事につけたコメントですが、若い人たちにも読んでいただきたいため、ここに転載します。
コメントという性質上、前後関係はわかりにくいと思いますが、大意はご了承いただけると思います。
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1938年!私が生まれた年です。
その前年、1937年頃、確かに大陸での戦いが激しくなり、日本人の戦死者も急増しています。15年戦争全体での日本軍兵士の戦死者は230万人に及びますが、その内75万人が中国での戦死です。
それらが1937年頃に急増したひとつの傍証は、川柳界の小林多喜二と言われ、やはり29歳で獄中死した鶴彬という川柳作家の作品にあります。
彼は、農村の人身売買、女工哀史、労働者への弾圧など幅広い題材を川柳に詠み、もちろん戦争についても詠むわけですが、それが1937年にいたって急速に戦争に触れた作品が多くなるのです。
この折はまだ真珠湾攻撃以前ですから、戦争といえばまず中国大陸のそれです。
出征のあとに食へない老夫婦
武装のアゴヒモは葬列のやうに歌がない
ざん壕で読む妹を売る手紙
タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやろう
稼ぎ手を殺してならぬ千人針
高梁(コーリャン)の実りへ戦車と靴の鋲
屍のゐないニュース映画で勇ましい
出征の門標があってがらんどうの小店
万歳とあげて行った手を大陸において来た
手と足をもいだ丸太にしてかへし
胎内の動きを知るころ骨がつき
これらが彼が戦争を題材とした句なのですが、このうちの「タマ除けを・・・」以下の句が37年のものです。
そして、「手と足を・・・」の句が治安維持法に違反するとして検挙され、翌38年に獄中死をしています。
中国戦線が国共の抵抗にあって思ったように進まぬ軍部のいらだちを、鶴の川柳がズバリ突いたので怒り狂ったのでしょうね。
なおこれらの資料を確認している過程で、敗戦時、関東軍と国民党軍が取引をし、数千名の日本軍兵士を国民党軍に編入して(八路軍と戦わせるために)残留させた結果、これらの兵士が帰国しても「勝手な戦線離脱」とされて軍人恩給の対象外とされたいわゆる「蟻の兵隊」事件の舞台が山西省であることを改めて知りました。
それら日本人残留兵士の痕跡については何かお聞きになったことはありますか。
やはりそこは、八路軍と対峙していただけに最前線だったのですね。
長くなりましたが、文革や天安門事件は中国の人にとって、なかなか語りづらいものがあるようですね。
私の店にバイトでいた聡明な中国人留学生も、私の立ち位置をある程度了解していたものの、その双方については多くを語りたがらないようでした。
同胞相討つですから近代以降、内戦を経験したことのない日本人にはわからない重さがあるのだと思います。