今季、二回目のぎんなんご飯を作った。
弁当のおかずは、豆腐入りほうれん草青菜炒め、じゃがいもカレー煮、ちくわ煮付け、鶏胸肉そぎ切りソティと卵焼き。
ご飯もおかずも、弁当に詰めた残りは昼餉に私が食べた。
ところで、こうしたご飯になにか具を入れて炊くのを、私の子供の頃の疎開先では、まぜめめしとかまぜご飯、あるいは、五目入っていなくとも五目めしとか五目ごはんといったりした。
関東や、いわゆる共通語では炊き込みご飯というらしい。
一方、関西では「かやくご飯」とか「かやく飯」とかいうようで、なんか口に入れたら爆発しそうなイメージをもっていたが、実はこれ、「火薬」ではなく「加薬」だという。
元はというと、室町時代、白飯の上に味付けした野菜などを乗せ、すまし汁をかけた食べ方が流行し、それが庶民にまで広がったものだという。それがなぜ「加薬」になるかというと、大阪に道修町という薬問屋の多い街があり、そこでは主成分の薬に補助的に混ぜるものを「加薬」といったが、そのうちに「混ぜる」という行為そのものを「かやく」というようになり、ご飯になにかを混ぜたもののことをかやくご飯とかかやく飯とかいうようになったのだという。
こんなことを書いていて、ふと道修町に引っかかるものを感じた。というのは子供の頃、疎開先が大垣だったせいで、やはり大垣に住んでいた仲のいい従兄弟がいて、彼は中学卒業とともに大阪は道修町のけっこう大手の薬問屋に就職した。就職当初は寂しかったのか頻繁に私宛に手紙が来て、私もこまめに返事を書いた。
そのうちに大阪に慣れたのか、そのやり取りも少なくなったが、何年かして出会う機会があり、一緒に飲んだりしたが、その際にはもうコテコテの大阪弁で、その顔つきまで関西人といった風貌になっていて驚いたことがある。
その彼の一家は、親が亡くなったあと、その相続を巡って実家にいた長男とその他の兄弟姉妹との間でシビアーな闘争があり、それを機に、長男以外は実家とは縁切り状態になり、もう帰郷しない彼とも会えなくなってしまった。
風のうわさでは、生来真面目だった彼は、その問屋が発展して薬メーカーになってからも重役クラスになったとのことだが、ほぼ私と同年代、健在だとしても、どこでどうしているかさっぱりわからない。
でも、こうして思い出すと、どこか人懐っこいところがあった彼、そしてそのコテコテの大阪弁が懐かしく思える。
この歳になると、すっかり忘却庫にしまわれてきたこと共が、ふとしたことで蘇る。
ぎんなんご飯 かやくご飯 道修町 そして半世紀も会っていない従兄弟・・・・。
弁当のおかずは、豆腐入りほうれん草青菜炒め、じゃがいもカレー煮、ちくわ煮付け、鶏胸肉そぎ切りソティと卵焼き。
ところで、こうしたご飯になにか具を入れて炊くのを、私の子供の頃の疎開先では、まぜめめしとかまぜご飯、あるいは、五目入っていなくとも五目めしとか五目ごはんといったりした。
関東や、いわゆる共通語では炊き込みご飯というらしい。
一方、関西では「かやくご飯」とか「かやく飯」とかいうようで、なんか口に入れたら爆発しそうなイメージをもっていたが、実はこれ、「火薬」ではなく「加薬」だという。
元はというと、室町時代、白飯の上に味付けした野菜などを乗せ、すまし汁をかけた食べ方が流行し、それが庶民にまで広がったものだという。それがなぜ「加薬」になるかというと、大阪に道修町という薬問屋の多い街があり、そこでは主成分の薬に補助的に混ぜるものを「加薬」といったが、そのうちに「混ぜる」という行為そのものを「かやく」というようになり、ご飯になにかを混ぜたもののことをかやくご飯とかかやく飯とかいうようになったのだという。
こんなことを書いていて、ふと道修町に引っかかるものを感じた。というのは子供の頃、疎開先が大垣だったせいで、やはり大垣に住んでいた仲のいい従兄弟がいて、彼は中学卒業とともに大阪は道修町のけっこう大手の薬問屋に就職した。就職当初は寂しかったのか頻繁に私宛に手紙が来て、私もこまめに返事を書いた。
そのうちに大阪に慣れたのか、そのやり取りも少なくなったが、何年かして出会う機会があり、一緒に飲んだりしたが、その際にはもうコテコテの大阪弁で、その顔つきまで関西人といった風貌になっていて驚いたことがある。
その彼の一家は、親が亡くなったあと、その相続を巡って実家にいた長男とその他の兄弟姉妹との間でシビアーな闘争があり、それを機に、長男以外は実家とは縁切り状態になり、もう帰郷しない彼とも会えなくなってしまった。
風のうわさでは、生来真面目だった彼は、その問屋が発展して薬メーカーになってからも重役クラスになったとのことだが、ほぼ私と同年代、健在だとしても、どこでどうしているかさっぱりわからない。
でも、こうして思い出すと、どこか人懐っこいところがあった彼、そしてそのコテコテの大阪弁が懐かしく思える。
この歳になると、すっかり忘却庫にしまわれてきたこと共が、ふとしたことで蘇る。
ぎんなんご飯 かやくご飯 道修町 そして半世紀も会っていない従兄弟・・・・。
うちの方でも「まぜめし」「混ぜご飯」でした。そしてそれは母が作ってくれる特別な日のごちそうでもありました。子供たちは親の気持ちも知らないで、お櫃が空になるまで最後はしゃもじで掠って食べつくすのでした。
こんなことを思い出すと涙が出るのはなぜでしょう。
私も戦中戦後の食糧事情の中を生きてきたせいもあって、食の話でツンと来ることは結構あります。
いまは豊(飽)食の時代などといわれていますが、一方、学童の6人に1人が欠食や貧食の中で生きていると聞くと、資本主義ってやはり欠陥の体制だと思ってしまいます。
貴ブログではここ3回ぐらい方言を取り上げていらっしゃいますね。私もこの記事で炊き込みご飯の地方での言い方と、大阪に奉公に出た従兄弟がコテコテの大阪弁になった話を書きました。
もっとも関西弁というのは、放送業界へのヨシモトの進出に伴い、どんな芸があるのかよくわからないゲイニンがさまざまな番組を占拠していて、もはや方言の域を脱していますが。
方言の話でシビアーなのに、かつて沖縄で、標準語が話せない学童に罰則として胸にかけさせた「方言札」の話があります。
もっとシビアーなのは、100年前の関東大震災の折、「十円五十銭」を巧く発音できない朝鮮人を6,000人ほど殺すという惨事のなか、地方から出稼ぎに出た人もそれに引っかかって殺されたという事実です。
今年公開された森達也監督の映画「福田村事件」はそれを真正面から取り上げています。
長くなりました。今後ともよろしく。