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六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

私の歯と『楢山節考』と『デンデラ』

2013-11-05 11:44:03 | よしなしごと
 私は年の割に歯が丈夫です。若い折は、アサリを殻ごと食べることができるかどうかで賭けをし、見事、勝ったりしたこともあります。もちろん昨今はそんな無茶なことはしません。
 ただし、若さにかまけ、人の下宿を泊まり歩いていてろくすっぽ歯も磨かなかった時期があり、その頃に虫歯にやられた歯が2、3本あって詰め物などしてあるのですが、50代以降は歯科医へいっても歯垢をとってもらったり、少しぐらついているものを固定してもらったりぐらいの治療で済んでいます。

 特別なケアーはしていません。強いていうと、歯科医などで指導を受けるよりも強い力で磨きます。したがって、歯ブラシの毛の部分がすぐそっくり返ってきます。
 しかし、どういうわけか、いま使っているものは使い始めてある程度経ち、相変わらず力を込めて磨いているのにかかわらず、形状が変化してきません。

 道具に無頓着な私は、これをどこで手に入れたのかまったく覚えていないのですが、どこかで買った覚えはありませんから、おそらく、一昨年の秋、中国へ旅したときに太原か北京のホテルから持ってきたものだろうと思います。

 中国産は粗悪だとイメージが、それもかなり一般的な固定観念を伴ってあるようですが、この歯ブラシについては感心するぐらい使い勝手がいいのです。

 なお、中国産に神経質になっている向きも、実際には気が付かないところでそれと知らぬままその製品を使っている場合が多いと思います。
 私の場合は、正直言って、食品に関してはいくぶん神経質ですが、その他はさほど気にしていません。

  

 歯といえば、今村昌平の映画『楢山節考』(原作:深沢七郎)の主人公「おりん」が、老いてもなお丈夫な歯を持つことを自分の孫にからかわれ、石にその前歯をあてがって自ら砕くシーンがあります。
 それは、自らの老いを完成し、山村共同体の掟に従って死にゆく己の定めを確固として成就しようとする決意の一環を示しています。

 おりんがお山へ行く(=棄却される)のは七〇歳だといわれているのですが、この私は、それを数年過ぎても、なおかつ自分の歯をいたわっているのです。
 思えば、歯が丈夫であることは、おりんにとってはもう残っていてはならない「若さ」の象徴であり、したがって、やがて消滅すべき身には、あってはならない恥ずべきものとして砕かれねばならなかったのですが、しつこくもまだ生き延びようとする私にとっては、やはりそれは私の中に残る若さの残像として、保存されねばならないものなのです。

  

 とはいえ、雪の山でひっそりとその生を終えるという美学にも何がしか惹かれるものがあります。ただし、私の場合は、極上のスコッチを一本持たせてほしいと思うのですが。

 おりんの毅然とした「おやま参り」(=棄却)に対し、まったく反するような映画を、今村昌平の長男、天願大介が撮っているのですが(『デンデラ』2011年)、もう、すでに長くなりすぎましたので、それについてはまた次回。




 

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かつての「明治節」にちなんで

2013-11-03 14:12:14 | 想い出を掘り起こす
 若い人には馴染みがないだろうが、かつては天皇誕生日は「天長節」という祝日だった。明治時代においては11月3日が「天長節」であった。明治天皇の誕生日が11月3日だったからである。
 私の物心がついたときは昭和期であったから天長節は昭和天皇の誕生日、4月29日であった。そして、11月3日は「明治節」と呼ばれ、やはり祝日であった。その間の大正天皇の誕生日は影が薄かった。
 大正期の天皇誕生日=天長節は本当は8月31日なのだが、暑い盛りだとということで10月31日に日延され、その逝去後は明治天皇のように祝日としては残らなかった。
 ようするに大正天皇は、日本の近代史上ほとんど無視された存在ともいえる。

          

 昭和天皇の誕生日は4月29日で、私がものごころついた頃の天長節だったことはすでに述べた。その後は「天皇誕生日」と呼ばれたが、1989年(昭和64年)、その逝去後は4月29日を「みどりの日」としていた。しかし、2007年以降はその「みどりの日」を5月4日に移動し、4月29日は「昭和の日」と呼ばれるに至っている。

 ちなみに、今上天皇の誕生日は12月23日である。昭和天皇が逝去し、改めて今上天皇の誕生日として12月23日が休日になった折、年末商戦でなんとかその年の帳尻を合わせようという主として飲食業界からは、大きなため息が漏れたものである。「ああ、一日が飛んでゆく」と。
 これは別に、反天皇論者の見解ではなく、率直な小売業者の声であった。
 反面、ラストスパートで追われるサラリーマンにはホット一息つける時になったかもしれない。

 かつての明治節が今日の「文化の日」に転じたのは周知のとおりである。
 なお、かつての明治節と重なったのは偶然なのか、それともこの日に合わせたのかは分からないが、現行憲法が公布された日でもあり、その事実こそが一番、現在の私たちと関連していることを強調すべきであろう
 この11月3日、過去にあったといわれる事共を拾い集めてみた。


 

 ・ 711年  太安万侶が『古事記』の編纂に着手
 ・1493年  コロンブス、ドミニカ島を目認
 ・1880年  「君が代」がはじめて披露される
 ・1918年  第一次世界大戦の休戦協定
        ポーランド、ロシアから独立宣言
 ・1929年  朝鮮で光州学生事件
 ・1931年  宮沢賢治、「雨ニモ負ケズ」を書く
 ・1944年  日本軍、米本土を攻撃  ただし「風船爆弾」で!!
 ・1946年  日本国憲法(現行)が公布
 ・1949年  湯川秀樹にノーベル物理学賞 日本人初のノーベル賞
 ・1953年  小津安二郎の『東京物語』劇場公開
 ・1954年  『ゴジラ』第一作公開
 ・1957年  ソ連、犬を乗せた人工衛星 地球の生物初の宇宙空間に
 ・1992年  沖縄戦で焼失した首里城復元

 ・生誕   先ごろ亡くなった作家の山崎豊子、1924年に生誕
       手塚治虫は1928年の生誕  河村たかし名古屋市長は1948年
 
 ・独立記念日  パナマ 1903年 コロンビアから
         ドミニカ共和国 1978年 イギリスから
         ミクロネシア連邦 1986年 アメリカの信託統治から
 
 ・その他  レコードの日(1957年から) ハンカチの日(1983年から)
       文具の日(1987年から) いいお産の日(1994年から)
       漫画の日(2002年から)
 




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み~ろよ、青い空~、し~ろい雲~

2013-11-01 00:04:19 | 想い出を掘り起こす
 突き抜けるような秋の青い空とそこにたなびく雲に出会ったりすると、つい思い出す歌がある。
 こちらの機嫌がいい場合など、おもわず口ずさんだりもする。
 植木等(1926-2007)の「だまって俺について来い」だ。

 この歌の一番にある「みろよ 青い空 白い雲」が秋の青空に呼応するのだ。
 年配の方はご存知の通り、この歌は秋の叙情とはまったく関係のないコミックソングである。
 1964年にヒットしたこの歌の全歌詞は以下のようである。

   ぜにのないやつぁ?俺んとこへこい?
   俺もないけど 心配すんな
   ?????????????みろよ 青い空 白い雲?
   そのうちなんとかなるだろう??

   彼女のないやつぁ?俺んとこへこい?
   俺もないけど 心配すんな?
   みろよ 波の果て 水平線?
   そのうちなんとかなるだろう

   ??????????????仕事のないやつぁ?俺んとこへこい?
   俺もないけど 心配すんな?
   みろよ 燃えている あかね雲?
   そのうちなんとかなるだろう


 曲は萩原哲晶、そして詞は青島幸男である。
 この一番から三番までの3行目が歌詞、メロディともにとても叙情的で、そのうちの一番の部分が私の思い出を刺激するわけである。

 ところで、この時代を「無責任時代」といい、植木等は「無責任男」としてその中心的なキャラを担っていた。
 時代はまさに高度成長の黎明期、第一回の東京五輪もあり、敗戦後の鬱積した気分を吹き飛ばして、ひたすら成長が叫ばれた時代であった。

         

 しかし、植木等を無責任時代のヒーローとするのはまったく誤っている。ほとんどが、前記の萩原哲晶と青島幸男のコンビによって作られ、植木等やクレージー・キャッツのメンバーによって歌われた歌の数々は、優れてこの時代を批判するパロディであって、ほんとうの無責任は、植木等らが演じる表層の部分にではなく、その深層で進行しつつあった事態であった。

 まずは、「生産性」という言葉が経営などの専門領域を越えて一般用語として普及し、「生産性向上」は錦の御旗、または水戸黄門の印籠のようなものであった。
 その掛け声のもとに重化学工業を中心に、太平洋ベルト地帯の工業化、コンビナート化が進められた。「人手不足」が深刻化し、農山村や漁村から都市や工業地帯へと労働力が集中するところとなった。
 
 結果として、地方は疲弊し、過疎化し、閉村という事態も相次いだ。そこまでは至らなくとも、地方の村々といえば人口の構成は老人と子どもといったことが一般化するところとなった。
 それらはまた、地方市町村の小売業者の危機をまねき、今日のシャッター通りの遠因にもなっている。
 
 さらにそれに追い打ちをかけるように、60年代末から70年代にかけて深刻な事態が発生する。各種公害の噴出だ。
 イタイイタイ病、チッソ水俣病、新潟水俣病、四日市ぜん息などの四大公害病をはじめとする各種健康障害、光化学スモッグなどの大気汚染、水質汚染、騒音障害などがそれらである。
 歴史に学ばない単純な嫌中派は、現行の中国の公害を嘲笑して溜飲を下げているが、それはつい何十年前の日本の姿だったのだ。

         

 もう一つの無責任は、今日の原発にまで及ぶ核開発の起点がこの頃にあるということである。
 これはすでに公開文書などで明らかになっているが、上記の歌と同年のまさに1964年に佐藤栄作首相のもとで、密かに核兵器所有の策が練られていたということである。さすがにこれは、アメリカの高官から、日本はアメリカの核の傘のもとにあるのだから重複して核兵器を保つ必要はないだろうとたしなめられている。
 ならばそれが可能となる条件だけでもと原発の設置が加速されるところとなった。
 その延長上に今回の事故があるのだが、原発以前に核武装へ意志があったことを忘れてはならないし、それらはいまも衣の下の鎧として存続している。
 原発事故後の対応の無責任、東電の倍賞などに応じないという無責任についてはいまさらいうまでもない。

 これらの無責任は、いってみれば当面の利潤や欲望すら満たされれば、それらによって生じる副作用や副産物がどのような結果をもたらそうと知ったことではない、それらはそれで、後の世代がなんとかするであろうというものであり、その最たるものが原発から生じる核廃棄物の放置である。

         

 さて、最初の歌の話に戻ろう。
 すでに述べたように、この歌の作者たちや歌った人たちが無責任だったわけではない。
 むしろ彼らは、前進あるのみという底抜けの世相のその水面下で進行しつつあったさらに巨大な無責任を嗅ぎ取り、それを表現していたのである。この時代に端を発する無責任の系譜を揶揄するものでこそあれ、それ自身は決して無責任ではないといえる。

 この歌は、コミックソングとして売りだしたため、植木等もそれらしく誇張して歌っているが、普通に歌ってもいい歌だと思う。
 繰り返しになるが、それぞれのの3行目にある叙情的な部分は、ちまちまとした人間の事象と自然の雄大さを対比させているのであり、したがって最後の「そのうちなんとかなるだろう」の部分は私たちが帰属すべきはこのおおらかな自然のうちにこそあるのだと歌いあげているのだと思う。
 その意味では、この「そのうちなんとかなるだろう」は、産業社会やテクノロジーがその尻拭いを後代に押し付けていることとはまったく次元が違うように思う。

 そしてそれは、私の座右の銘、「セ・ラ・ヴィ」(諦観や疎外論ではなく「これぞ我が人生」という積極的受容)にも通じるものだと思っている。
 
 


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