*写真は本文と関係ありません。「黄昏る街」
けっこう自己顕示欲が旺盛で誰にも相手にされないと寂しいくせに、それとは矛盾するようだが、ひとりでいるときが好きだ。
単純に、自分が自分の王様でいられるからだろう。
ひとりでいるときは、かなり際どいことを考えたり夢想したり、実際に、実にくだらないことをしていたりもする。
それらのうちには、決してひとにはいえないことであったり、発覚すれば人格を疑われ、破綻者扱いもされかねないこともあったりする。
しかし、ひとりでいる限り露見する恐れはない。
私が何をし、何を考えているかは誰も知らない。
いわば、深山で木の葉が一枚ハラホラと落ちるのをだれも知らないようなものだ。
ただしこれも「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」という、いわゆるバタフライ効果というものがあるそうだから、無碍になかったことにするわけにはゆかないのかもしれない。
ひとりの折の私の行為に戻ろう。
それがなんの痕跡も残さないことには一抹の寂しさもあるのだが、ひとの言動や行為が何らかの意味を獲得するのは他者を前提としてであることを考えれば当然なのかもしれない。
誰にも知られないでする悪事についてはどうだろう。
迷宮入りの殺人事件でもいいし、そんな大したものではなくとも、まさにひとりでいるときにする小悪事などについてである。私も、後者の小悪事やインチキぐらいはすることがあるが、その場合、やはり多少は引っかかるものがある。ひとによってはそれを良心などというかもしれない。
それはつらつら考えてみるに、幼少時から亡父にいわれていた、見つからないといって悪いことをしてはいけないという教えによるのかもしれない。高等小学校卒の父は、倫理だの道徳だのと七面倒臭いことはいわなかったが、諺や箴言をよく知っていてそれで私を諭すのであった。
上の事例に関して父がよくいっていたのは「天知る地知るわれも知る」であった。「だ~れも知らぬと思っていても、どこかでどこかでエンゼルが~」というのは森永のコマーシャルソングだが、それと同様、だれも知らないと思っていても知るものがいるぞよというわけである。
この場合のミソは、「われも知る」であろう。天や地は解釈次第によってはないことにしてしまうことができるし、あって、それに知られたところでそれがどうしたで済ますことができるかもしれない。
しかし、「われ」の中に残る痕跡は容易に消すことができない。
これはいってみれば、「われ」はつねにすでに「孤立したわれ」ではないからだと思われる。
上に述べた「ひとの言動や行為が何らかの意味を獲得するのは他者を前提としてである」のと並行した事柄であるが、「われ」というもの自身が他者や他者のうちにある自分を内面化したものにすぎないからだと思う。
ようするに、白紙の「われ」などというものはありえないのだと思う。
カントの有名な定言命法に、「汝の意志の格率が同時に普遍的な立法の原理として通用しうるように行為せよ」というのがある。平たくいえば、自分の行為が普遍的な立場に照らして常に通用するものとして振る舞えということだが、この場合の「普遍」というのは他者たちからなる世界そのものであろう。
ようするに、私の父もかのカント先生と同じことを私に諭していたわけで、私のなかの道徳律は父によってもたらされたものかもしれない。
とはいえ、それに決して忠実なのではない。どちらかといえば、もうひとつ父が残してくれた箴言、「小人閑居をして不善をなす」の方を日々実践している始末なのだが・・・。
けっこう自己顕示欲が旺盛で誰にも相手にされないと寂しいくせに、それとは矛盾するようだが、ひとりでいるときが好きだ。
単純に、自分が自分の王様でいられるからだろう。
ひとりでいるときは、かなり際どいことを考えたり夢想したり、実際に、実にくだらないことをしていたりもする。
それらのうちには、決してひとにはいえないことであったり、発覚すれば人格を疑われ、破綻者扱いもされかねないこともあったりする。
しかし、ひとりでいる限り露見する恐れはない。
私が何をし、何を考えているかは誰も知らない。
いわば、深山で木の葉が一枚ハラホラと落ちるのをだれも知らないようなものだ。
ただしこれも「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」という、いわゆるバタフライ効果というものがあるそうだから、無碍になかったことにするわけにはゆかないのかもしれない。
ひとりの折の私の行為に戻ろう。
それがなんの痕跡も残さないことには一抹の寂しさもあるのだが、ひとの言動や行為が何らかの意味を獲得するのは他者を前提としてであることを考えれば当然なのかもしれない。
誰にも知られないでする悪事についてはどうだろう。
迷宮入りの殺人事件でもいいし、そんな大したものではなくとも、まさにひとりでいるときにする小悪事などについてである。私も、後者の小悪事やインチキぐらいはすることがあるが、その場合、やはり多少は引っかかるものがある。ひとによってはそれを良心などというかもしれない。
それはつらつら考えてみるに、幼少時から亡父にいわれていた、見つからないといって悪いことをしてはいけないという教えによるのかもしれない。高等小学校卒の父は、倫理だの道徳だのと七面倒臭いことはいわなかったが、諺や箴言をよく知っていてそれで私を諭すのであった。
上の事例に関して父がよくいっていたのは「天知る地知るわれも知る」であった。「だ~れも知らぬと思っていても、どこかでどこかでエンゼルが~」というのは森永のコマーシャルソングだが、それと同様、だれも知らないと思っていても知るものがいるぞよというわけである。
この場合のミソは、「われも知る」であろう。天や地は解釈次第によってはないことにしてしまうことができるし、あって、それに知られたところでそれがどうしたで済ますことができるかもしれない。
しかし、「われ」の中に残る痕跡は容易に消すことができない。
これはいってみれば、「われ」はつねにすでに「孤立したわれ」ではないからだと思われる。
上に述べた「ひとの言動や行為が何らかの意味を獲得するのは他者を前提としてである」のと並行した事柄であるが、「われ」というもの自身が他者や他者のうちにある自分を内面化したものにすぎないからだと思う。
ようするに、白紙の「われ」などというものはありえないのだと思う。
カントの有名な定言命法に、「汝の意志の格率が同時に普遍的な立法の原理として通用しうるように行為せよ」というのがある。平たくいえば、自分の行為が普遍的な立場に照らして常に通用するものとして振る舞えということだが、この場合の「普遍」というのは他者たちからなる世界そのものであろう。
ようするに、私の父もかのカント先生と同じことを私に諭していたわけで、私のなかの道徳律は父によってもたらされたものかもしれない。
とはいえ、それに決して忠実なのではない。どちらかといえば、もうひとつ父が残してくれた箴言、「小人閑居をして不善をなす」の方を日々実践している始末なのだが・・・。