変な話だが、私にとって岐阜の春は大阪フィルの岐阜公演から始まる。毎年この時期にやってくる定期演奏会は今年で42回を迎えるが、そのうち、おそらく20回ぐらいは聴いている。ここ10年以上は、欠かさず毎年出かけている。
というわけで、春宵の一刻、岐阜はサラマンカホールでの公演に出かける。
今年はソリストに地元出身の辻 彩奈さんを迎えてのオール・チャイコフスキーのプログラム。もちろんその中心はヴァイオリン協奏曲だ。指揮者は井上道義氏。
前半最初は、歌劇「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ。小手調べであるが、チャイコフスキー独特のこってりした叙情のなかに、やはりロシアの調べが隠しようもなく漂う。
辻さんが育ったホームグラウンドのような宗次ホールからの花が届いていた
そしてお目当ての辻 彩奈さんが弾くヴァイオリン協奏曲。
いや~、すばらしいっ!
実は昨年の4月20日、同じこのサラマンカホールでの彩奈さんのリサイタルを聴き、そのスケールの大きさに驚き、なおも伸びしろのある才能だと評価している。
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20180421
その折の期待を裏切らないすごい演奏だった。一音一音に込められた音の密度が濃い。だから粘ばっこい音が紡ぎ出され、前後の音と言語的に言えばリエゾンして、音符を奏でるという効果以上の一連の有機的な音楽が表現される。
音楽が音符という記号の連なりではなく、まさにマテリアルな現象としてそこにあるといっていいだろう。
地元びいきを超えて、心底、才能があるひとだと思った。
ソリストアンコールはバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第三番ガヴォット。
これがまた、「おまけ」の域を超えてすごかった。感動モノだった。
今春からは、スイスロマンド交響楽団との協演で、メンデルスゾーンの協奏曲で全国を回るようだ。
後半は、チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」から、指揮者の井上道義氏がセレクトしたコレクションを組曲として演奏。
メロディメーカーとしてのチャイコフスキーの、これはどうだという曲たちだが次々と繰り広げられる。しかし、この叙情味溢れるメロディのなかに垣間見られる、ある種の不安のような要素は、19世紀末から20世紀初頭へのあのロシアにおける歴史的な大変換の予兆を含んでいるのではあるまいか。
井上道義氏の指揮ぶりは、ビジュアル的にも面白い。下半身を含めて全身を柔軟に使ったその表現への姿勢は、それ自身でじゅうぶん絵になる。
とりわけヴァイオリン協奏曲においては、指揮台を撤去し、指揮棒ももたず、ソリストの間近での指揮は、踊るように流麗で、オケを背景にソリストとダンスを共演しているかのようであった。
後半の「白鳥」でも、著名曲になると聴衆を振り向いてみせるなど、その場に居合わせるすべてと、演奏という行為とその味わいの共有を図っているよう、マエストロの多様性を垣間見させてくれた。
とにかく、素晴らしくかつ楽しいコンサートだった。
オケのアンコールはチャイコフスキーの交響曲第4番の第3楽章。
この楽章、弦はいっさい弓を弾かないピチカートのみで、始まった途端、あ、あれだと思った。
サイン会での辻さん 本当は写真を撮ってはだめだとあとから知った
大阪フィルの岐阜定期演奏会は、私にとって、岐阜の春を告げる必須のイベントといえる。いろいろあって、ちょっとメランコリーになっていたが、それが払拭できそうだ。
春宵一刻値千金、わが春愁よ去れ!
というわけで、春宵の一刻、岐阜はサラマンカホールでの公演に出かける。
今年はソリストに地元出身の辻 彩奈さんを迎えてのオール・チャイコフスキーのプログラム。もちろんその中心はヴァイオリン協奏曲だ。指揮者は井上道義氏。
前半最初は、歌劇「エフゲニー・オネーギン」からポロネーズ。小手調べであるが、チャイコフスキー独特のこってりした叙情のなかに、やはりロシアの調べが隠しようもなく漂う。
辻さんが育ったホームグラウンドのような宗次ホールからの花が届いていた
そしてお目当ての辻 彩奈さんが弾くヴァイオリン協奏曲。
いや~、すばらしいっ!
実は昨年の4月20日、同じこのサラマンカホールでの彩奈さんのリサイタルを聴き、そのスケールの大きさに驚き、なおも伸びしろのある才能だと評価している。
https://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20180421
その折の期待を裏切らないすごい演奏だった。一音一音に込められた音の密度が濃い。だから粘ばっこい音が紡ぎ出され、前後の音と言語的に言えばリエゾンして、音符を奏でるという効果以上の一連の有機的な音楽が表現される。
音楽が音符という記号の連なりではなく、まさにマテリアルな現象としてそこにあるといっていいだろう。
地元びいきを超えて、心底、才能があるひとだと思った。
ソリストアンコールはバッハの無伴奏ヴァイオリンパルティータ第三番ガヴォット。
これがまた、「おまけ」の域を超えてすごかった。感動モノだった。
今春からは、スイスロマンド交響楽団との協演で、メンデルスゾーンの協奏曲で全国を回るようだ。
後半は、チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」から、指揮者の井上道義氏がセレクトしたコレクションを組曲として演奏。
メロディメーカーとしてのチャイコフスキーの、これはどうだという曲たちだが次々と繰り広げられる。しかし、この叙情味溢れるメロディのなかに垣間見られる、ある種の不安のような要素は、19世紀末から20世紀初頭へのあのロシアにおける歴史的な大変換の予兆を含んでいるのではあるまいか。
井上道義氏の指揮ぶりは、ビジュアル的にも面白い。下半身を含めて全身を柔軟に使ったその表現への姿勢は、それ自身でじゅうぶん絵になる。
とりわけヴァイオリン協奏曲においては、指揮台を撤去し、指揮棒ももたず、ソリストの間近での指揮は、踊るように流麗で、オケを背景にソリストとダンスを共演しているかのようであった。
後半の「白鳥」でも、著名曲になると聴衆を振り向いてみせるなど、その場に居合わせるすべてと、演奏という行為とその味わいの共有を図っているよう、マエストロの多様性を垣間見させてくれた。
とにかく、素晴らしくかつ楽しいコンサートだった。
オケのアンコールはチャイコフスキーの交響曲第4番の第3楽章。
この楽章、弦はいっさい弓を弾かないピチカートのみで、始まった途端、あ、あれだと思った。
サイン会での辻さん 本当は写真を撮ってはだめだとあとから知った
大阪フィルの岐阜定期演奏会は、私にとって、岐阜の春を告げる必須のイベントといえる。いろいろあって、ちょっとメランコリーになっていたが、それが払拭できそうだ。
春宵一刻値千金、わが春愁よ去れ!