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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

第五福竜丸を撫で回した男

2024-09-28 00:05:06 | 歴史を考える
 
 
 私の友人、劉永昇氏が7月27日の「朝日」の朝刊(ただし東海版のみ)に写真のようなコラムを載せていらっしゃる。
 
 私自身は、第五福竜丸乗員の久保山愛吉さんが1954年のビキニ環礁の米軍の水爆実験で被爆し死亡したことをリアルタイムで知っていたし、そればかりか、1959年には、まだ分裂する前の原水爆禁止日本協議会の焼津大会に参加し第五福竜丸とも逢っている。

 その折、同船は、焼津港近くの大きな木造の小屋に収納されていた。大きいとはいえ、板目もはっきりみえる木造船で、こんな船で南太平洋までマグロを獲りに行くのだと感心した。
 船は無造作に置かれてたので、久保山さんらの乗組員のことを思って、船体を撫で回した。

 しばらくして、「あの船には残留放射能はまだあって・・・・」という報道に接し、オイオイ、そんなことはもっと早くいってくれよ、こっちはすっかり船体と触れ合ったじゃないかと思った。
 今日に至るも、私の言動がおかしいとしたら、それは残留放射能のせいである。

 ところで、この件に関して、「朝日」にはこんな報道もある。
 https://www.asahi.com/articles/ASS5G2RRBS5GUTIL015M.html

 それにもまして、NHKが健闘してるように思った。
 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240803/k10014520391000.html
 https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/4928/



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2 コメント

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Unknown (マリヤンカ)
2024-10-23 09:23:40
私は子どもの時「第五福竜丸」の映画を観て
恐ろしさにふるえが止まりませんでした。
以来第五福竜丸のことはしっかりと頭の中に刻み込まれました。
焼津から移動してきた第五福竜丸が、伊勢市の港で、大学の練習船に改修して利用され、
その後再び第五福竜丸となって今に至ることを最近知りました。
伊勢市では、「第五福竜丸」を忘れないために今も様々な催しが続けられていることも初めて知りました。
夏には、三重COOPと伊勢市の造船所(旧)と共同で、
子どもたちと牛乳パックで第五福竜丸の動く模型を作ったり、
紙芝居や講演会も行われています。
非核、非戦の活動がこんな形で伝えられていることを知ってちょっと嬉しかったので、
ここに書かせていただきました。
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Unknown (六文銭)
2024-10-23 15:32:21
>マリヤンカ さん
 焼津港近くの小屋に無造作に置かれたそれを撫で回した感触を昨日の事のように思い返す事ができます。
 あの出来事は久保山さんのみならず、近くを航行していた他の漁船員にも被害をもたらしたことはその後続々と判明してきました。
 また、これはほとんど有耶無耶にされているのですが、その実験を観測していた米軍関係者にも深刻な被害をもたらしているようです、。つまり彼らは、自分たちが製造した殺人兵器が、想像を超えた威力を発揮したため、その犠牲になったわけです。
 第五福竜丸がどこかの実験船になったとは聞いていましたが、それが三重県だったとは知りませんでした。
 それが契機になって、子どもたちに非核・非戦の考えが醸成されるとしたら久保山さんの霊もどれほどか浮かばれるように思います。
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