2月の初め、今年何度目かの名古屋。
岐阜の県都、JR岐阜駅から快速で18分、普通で25分。この近さが岐阜を名古屋の衛星都市にしてしまった要因の一つだ。
折しも土曜日とあって、名古屋駅やその周辺の雑踏に目を見張る。岐阜駅のあの静かな佇まいとはまったく異なる群衆がわんさかといる。
私が岐阜駅周辺で見た人たちのほとんどは、ある用件によってある場所へと移動するひとたちであった。むろんそうではない人も若干はいただろうが。
しかし、名古屋駅周辺の雑踏の中の人たちは必ずしもそうではない。所定の会合にはやや時間があったので、名古屋駅周辺の人混みのなかをしばらく歩いてみた。
用件をもって特定な場所へ急ぐ人もかなりいたろうが、その歩行などからして、とくに急ぐわけでもなく、どこへ行こうかと選択しながら歩を進める個人、カップル、仲間うち、家族連れがとても多いのだ。
いってみれば遊民たちである。彼らはどこで何をするのかを求めてさすらい歩く。そしてそれを待ち受ける物品販売店、飲食店、カラオケルームや映画館のような娯楽設備。
こうした都市遊民(むろん近郷近在からの人たちも含んで)の人たちと、その不特定多数の要求を受け入れる設備の充実、どうもそれが都市の条件のようだ。
もちろんそれには経済的な地盤が伴う。
かつて岐阜は、織物の生産地・尾張一宮をバックに、繊維二次加工(ようするに既製服)の全国指折りの産地であった。
小規模な問屋が、数百軒も駅前辺りにひしめき、それぞれが小規模な縫製工場を抱えて製品を作らせていた。こうした多品種少量生産は、生産効率は悪いものの、各地の繊維小売業からは珍重された。
「岐阜へゆけばなんでもある」「しかも一点から卸してくれる」が売りで、全国から繊維小売商が仕入れに来た。
卸商や縫製業者は潤い、岐阜の歓楽街は人で溢れた。仕入れに来た小売商たちも、宿泊先から街へ繰り出した。
縫製業は、東北や九州からの若い女性たちで占められ、その給与は安かったが、休日に街へ出て映画を観るぐらいの余裕はあった。
また、あまりにもひどい労働条件に我慢できなかった女性は、飲食店やグランドキャバレーの従業員に転職した。ひところの岐阜の夜の街は、九州弁で溢れていた。
はっきりいって、岐阜の繊維業は、低賃金労働によって支えられていた。そして、それは高度成長時以降の雇用状況に耐えられるものではなかった。
資本力のあるところは、当時賃金が安かった中国や東南アジアへ工場を設置した。それほどではないところは、中国から技能実習生などの名目で安い労働力を得ていた。
ひところは、岐阜の縫製工場では中国語が飛び交っていたが今はもはやそれもない。中国の経済成長とともに、安くて労働条件も悪いところへ来る人はもういない。次はベトナムと粘ったところもあったが、それももうほとんどない。
こうして岐阜の繊維産業は崩壊した。駅前にあった繊維問屋街は、いまや10%以内の生存率でしかない。かつて隆盛を極めた問屋街は、真昼も怖いような一大シャッター街と化してる。その再開発の目処も立ってはいない。
駅やそれとほど遠からぬところに、場違いなような巨大な建造物もあるが、下層階の商業施設はガラガラ、上層階のマンション部門の住人の多くは名古屋の職場へ通う人びとである。名古屋の港区や南区、緑区のハズレから名古屋の中心部へ通勤するのに比べ、岐阜の中心部からのほうが遥かに早いのだ。
これから岐阜駅前の再開発で、またマンションなどが建つであろう。
名古屋の中心部へ通勤する皆さん、どうかそこに住まいを定めてください。いまや皆さんの支払う市民税のみが、岐阜市を潤すのです。