どの程度の不祥事かいろいろ記事を読んでみたが、やはりかなりのもので、弁解の余地はないだろう。それも、従前からのもので常習化していたみたいだ。
まあ、これではいろんな所から干されるのは仕方ないだろう。
最近では、トヨタの社長とTVに現れ、「トヨタイズム」とやらを語るCMでよくお目にかかっているが、こんなものは消えてもなんともない。たしかにトヨタは金儲けがうまい。それをあたかも崇高な理念があるかのように上から目線で語るようなCMはむしろ不快ですらあった。
最初にすごいなと思ったのは、中国映画の『鬼が来た』(02年)での日本兵の役だった。これは他に代えがたいのではないかと思った。ついでやはり中国映画の『故郷の香り』(03年)での、まるでスナフキンを思わせるような中国人ろうあ者で鳥飼いの役。
日本映画で印象が強いのは、『ゆれる』(06年)で、オダギリ・ジョーと兄弟役を演じたものがある。
さらには、小泉今日子と夫婦役を演じた『トウキョウソナタ』(08年)での彼の演技も忘れがたい。
総じて言って、これらの映画での彼の演技は、やはり、余人でもって代えがたいほどしっかりと彼の味を出していたことだろう。だからこそ、これから彼のそういう演技が観られないというのが残念なのだ。
今回明るみになった彼の素行、それを諌める人が誰も周りにいなかったのかとも思うが、いくぶん病的な要素もあるかも知れないと思う。
それらをしっかりと矯正した上で、また私を唸らせるような演技を披露してほしいものだと思う。
久しぶりに大きな画面で映画を観たくなり、名古屋での会合のついでに、『灼熱の魂』を観た。以下はその感想のようなもの。
「1+1=1」というのがこの映画の謎を解くキーワードのようだ。映画の後半に明かされる謎の答えはこの図式を埋め、同時にありえないような凄まじい現実を暴き出す。
カナダに住む双子の姉弟は、母の死に伴い残された遺言状を託される。それには、お前たちにはまだ逢ってはいない父と兄がいて、それを探し出してそれぞれに手紙を渡してほしいというものだった。
母はあるときから、二人を連れてレバノンから移住したという以外、その過去の詳細は子どもたちにもわかってはいない。母の遺言を実行するには、若き日の母の足跡を求めてレバノンへ行くしかない。渋る弟を残して、姉はレバノンへ行き、その故郷を振り出しに探索の旅を始める。この旅の映像の前半は、娘の探索のシーンと、若き日の母が故郷を離れて彷徨う様子とが交互に映し出される。
故郷で母の名を出した途端、周りは不可解な拒絶反応を示す。ネタバレを承知でいえば、母はこの地でクリスチャンとして育ちながら異教徒のムスリムと恋に落ち、男の子を出産するが、恋人とは引き離されたばかりか、その彼は銃殺されてしまう。そのうえ、男の子も彼女から引き離され、どこかの孤児院に入れられてしまう。母の旅とは、その子を探しあてるための旅だった。
この母が恋をし、子をなし、それを奪われた時代背景というのは1975年から90年頃まで続いたレバノン内戦の時代だ。この内戦では、キリスト教マロン派のファランへ党とムスリムとの闘争という図式をもち、彼女を抑圧したのはこのマロン派ファランへ党と目される。子供を求めて旅する彼女の乗ったバスを襲い、「私はキリスト教徒だ!」と叫んだ彼女以外のすべての乗客を撃ち殺し、バスを炎上させたのもこのファランヘ党であったか。現実のレバノン内戦の歴史を見ると、状況は違うが、ファランへ党によるバス乗客の全員殺害事件がでてくる。
自分への抑圧、そしてこの凄惨な事件、そして息子のいる孤児院も彼らに襲撃されたと聞き、若き母はテロ組織に身を投じる。そしてファランへの指導者を殺した罪で15年の刑に処さられる。彼女はこうした逆境に屈することなく、獄中で歌い続けたため「歌う女」と称賛されるに至る。しかし、そんな彼女の心身を破壊し、その歌をも封じるために送り込まれた拷問人によって度重なる壮絶なレイプを受け、その後釈放されたということがわかってくる。
このあたりから、弟も探索の旅に加わり、その母の若き日の全貌が明らかになるとともに、父と兄に関する衝撃の事実も明らかになる。そして、それに耐え抜きながらも、最後にプールサイドで見た情景に力尽きた母の過酷な生涯全体が・・・・。
結局、手紙は「父と兄」に届けられ、謎は解かれる。しかし、これを見た者がその大団円に酔えるかどうかは別の問題だ。何らかの重い澱が残る映画ではあるまいか。
これは2010年に公開され、この度、デジタル・リマスター版で再公開されたもので、もともとは4時間に及ぶ演劇であったものを、ドゥニ・ビルヌーブ監督が2時間余の映画にしたものである。
これを書く前に、この映画について書かれた感想などを若干参照した。しかし、レバノン内戦、あるいは中東で、さらにいえば世界の至るところで展開されてる、民族、宗教、イデオロギーなどを巡る紛争を踏まえない感想や評論は、この映画の背景のリアリティを捨象した単なる謎解きにとどまっているように思えた。私たちはいまなお継続中の、世界観の争いの中にいるのだ。
ゴルバチョフが亡くなった。その評価はいろいろあるが、彼の前世紀末の世界史的変遷で果たした役割に比べれば、先ごろ亡くなった安倍なんてのは蚤の糞ほどの重みもない軽薄なカルトの手先であったに過ぎない。(ああ、それを国葬!なんとこの国の卑小で節操の無さよ!)
以下は、私がはじめて海外旅行に旅立ち、しかも最初に降り立った異国の飛行場・モスクワでの様子を、当時記したものだ。そして、それはゴルバチョフとのニアミスの瞬間だったのだ。
語句の不自然な点を補正した以外は、基本的にはそのまま載せることとする。
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1991年8月21日、私の乗った飛行機は、モスクワ空港の滑走路の上にいた。
モスクワ郊外の森と湖、それに農地のモザイクのような光景を眼下にしながら、ここへ降り立ったのだった。
その機はチューリッヒ行きであったが、ここで2時間ほどトランジットがあり、空港内ではあるが降りることが出来ることになっていた。
私にとっては始めての海外旅行で、従って始めて踏む他国の地であった。
養父のシベリア抑留体験、若い頃からの私の社会主義とのさまざまな因縁などを含めて、その地に足跡を記すのは何か運命的にも思われた。
しかも、折から、何かと話題の渦中にあるソ連である。
つい先日も、クーデターがあり、黒海地方に夏期休暇に出かけたゴルバチョフが反動派に幽閉されたというニュースが世界を駆けめぐったが、エリツィンなどの工作により一応の収束を見たことまでは成田で確認済みであった。
さあ、降りるぞ!それっ、売店だ、ウオッカだ、と私の気ははやるのだった。
ああ、それなのに、期待は無惨にも裏切られた。
機内アナウンスがあり、ソ連当局から、機外へでる許可が下りないので、そのまま座席にて出航をお待ち下さいとのこと。
そういわれて、仕方なく窓の限られた視界から外に目をやると、やはり何やら不穏な空気がみなぎっているではないか。
機関銃とおぼしきものを装備した装甲車や、完全武装した兵士たちが要所要所を固めているのだ。それらの兵士が、時折、機に接近してきて様子を窺ったりする。
もはや気分はウオッカではない。ここはやはり、争乱のまっただ中なのだ。
遠くに目をやると、すらりと伸びた白樺の並木が見渡せるのだが、それをバックに武装した兵士たちが行き交うのはやはり異様だ。
機内に緊張感が漂う。みなひそひそと言葉を交わすのみだ。
やがて機は、予定より30分早く離陸した。
離陸と同時に緊張が緩み、ホッとしたものが感じられた。
さっきまで、あれほどこの地に足跡をと思っていたのに、全く皮肉なものである。
これはあとで知ったのだが、この日、黒海付近に幽閉されていたゴルバチョフが、モスクワへ帰るためこの空港へ降りるというので、空港全体が厳戒態勢のうちにあったのだ。ひょっとしたら、私たちが待機させられた瞬間にも、ゴルバチョフはここに降り立ったかも知れないのだ。
私はその折りの自分の軽薄さと、そして、にもかかわらず、その後の天国のような10日間の旅をいささか後ろめたく思い起こす。
そう、私は、チューリッヒで乗り換えてオーストリアへ入り、モーツアルト没後200年祭に沸くウィーンとザルツブルグで、昼は散策、夜はコンサートやオペラという至福の時間を過ごしたのだった。
何という落差であろう。機関銃とモーツアルトは似合わない(そういえば、『セーラー服と機関銃』という映画があった)。
私が音楽を楽しんでいる間も、ソ連の崩壊はもはや留まるところを知らず、その年の暮れには、クレムリンから赤旗が降ろされ、ソビエト連邦そのものが消滅した。
後日、NHK・BSハイビジョンで、「エリツィンとゴルバチョフ~ソ連邦崩壊・当事者が語る激動の記録」と題した2時間のドキュメンタリーを観た。
それを観ながら、その現場をかすめたこと、そしてその後の至福の時間を思い出し、改めて自責の念やら、訳の分からない胸キュンなどを感じたのであった。
時の流れは速い。それから十数年ほど経った頃、機会があってハンガリーへ行ったのだが、社会主義の「社」の字も見あたらず、若い人達は1956年の対ソ動乱や、当時の指導者、イムレ・ナジについても知るところはなかった。
1991年8月21日は、私が世界史をかすめた日である。それとも、世界史が・・。