私は和風の元号を使わないようにしている。昭和ー平成ー令和というあれである。銀行や役場でこれを書かねばならないときには、あえて西暦で書いている。かつては、それではだめだといわれることもあり、いやいや迎合したこともあったが、最近は拒否されることが少なくなったような気がする。
なぜそれらを忌避するかというと、それが担う恣意性、はっきりいってしまえば天皇の即位・退位との対応に好感が持てないのだ。
西暦だってキリストの生誕に合わせた恣意的なものではないかといわれるかもしれない。それはたしかにそのとおりだが、遥かに2000年以上遡上する基準値であり、現実的な具体性からは距離感がある。
こんなことを言い出すのは、とりわけ「昭和」という時代の血生臭さ、天皇制と引き換えに失った多くの生命に思いを馳せるからである。
私の知り合いに、「皇紀」を用い、旧漢字や旧仮名遣いをする人がいるが、これは神話の神武天皇の即位を紀元とする数え方であり、やはり恣意的であるが、昭和ほど血生臭くはない。彼にいわせれば今年は紀元2684年である。ちなみのこの数え方だと私の生年は紀元2598年になる。
ただし、私自身はこれを用いることはなく、やはり西暦を用いてる。なぜかというと、それ自身キリスト教世界の恣意的な数え方として広まった年号とはいえ、これだけ世界的に広まっている現在、日本での出来事と国際的なそれとの比較や関連を考える場合、やはり西暦の方が都合がいいからである。
こんな硬い話をするつもりではなかった。なぜこんなことを書き始めたかというと、最近、平成と令和に関する面白い現場に立ち会ったからである。
昭和から平成に転じたのは、1989年のことであった。この折、一躍脚光を浴び、全国に知られるようになった地域がわが岐阜県の関市にあった。
その名は平成地区! そう、偶然、元号と一致したのである。ただし、この地区の読みは「へなり」であって「へいせい」ではなかったが漢字表記は全く同一だった。
厳密に言うとこの名の集落の住民は、当時、わずか37名であったという。特産物はシイタケ、その原木栽培が行われていた。
この地区は、県道58号線が走るのみで国道ではないのだが、岐阜市方面から下呂や飛騨地域に斜めに抜ける道としてけっこう交通量が多いところではある。
世の中には好奇心旺盛な人が多く、元号と同じ地域とは?というので、休日など全国からの訪問者が増えてきたという。臨時の売店などが道端にできたようだが、それでは対応しきれないとして、市などの力入れで、「道の駅平成」が出来上がった。
同時に、この地域一帯を日本平成村と名付け、女優の三田佳子さんを村長に迎えるなどした。
平成が当たり前の日常になると前ほどのフィーバーはなくなったが、上に述べた交通流の多さなどから道の駅はまあまあだったようだ。私も、2,3度、利用したことがある。岐阜から飛騨地区へ向かう際、トイレ休憩にちょうどいい場所なのだ。私が立ち寄った際にも、けっこう賑わっていた。
しかし、この道の駅を中心とした平成地区がもっとも賑わったのが2019年4月30日、平成最後の日であった。双方からやってくる車の列は10キロ以上の渋滞を産み出し、片側1車線の県道58号は完全に麻痺したという。
さて先般、地域のサークルの人たちと付知峡谷へ紅葉狩りに行った帰途、ここに立ち寄ることとなった。実はこれ、平成が終わってから初めてなのであまりさびれた様子は見たくないなぁという気持ちもあった。しかし、駐車場の車両数を見てもかなりのものだし、降りてみた売店や飲食コーナーの様子もまあまあなようで、なんとなく安心を覚えた。フィーバー時代に比べて、多少それぞれの規模を縮小して適応してきたのかもしれない。
写真のうち、上のものはメインの建物に「ありがとう!平成時代」の表示があり、それを指差す人もいて、けっこう好感を得ているというか、その遺産をちゃんと継承しているようだ。
しかし、土地の人たちはたくましい。その証拠が下の写真。
メインの建物のすぐ脇にあるみたらしやたこ焼き、五平餅を売る別棟には、鮮やかに「だんご屋 令和」と書かれてあった。
訪れたのが夕刻とあって、このだんご屋、もう閉店だからと半額セールを行っていた。私たち一行の誰かがソフトたこ焼きを買い、みんなに振る舞ってくれた。名前の通り、口中でふうわりと舌に絡み、けっこう美味かった。ビールの相手にぴったしだなと思った。
まあしかし、やはり私が令和という元号をを用いることはないだろう。実のところ、今年が令和何年かも怪しいのだ。
え?それは元号が云々という問題ではなくてお前の認知機能の問題だろうって・・・・う~ん。