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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

食の余り物 ある活用物語

2024-07-02 16:20:29 | グルメ

 実質一人暮らしで食事も作っているので、食べ切れないで余る場合が多い。
 ただし、子どもの頃疎開先の祖母から、「一粒の米でも八十八の手がかかっているのだから」と、床にこぼした飯粒一つでも拾って食べるよう厳しくしつけられたこともあって、それらを無駄にしないことを心がけている。

      

 上の写真はある日の夕餉である。いんげんの煮付けに人参(薄味で煮付け少々のバター味)、キャベツ千切りの湯煎に豚バラ細切れソティを合わせた温サラダ風、そしてナス煮物(仕上げに少々の味噌風味)といった野菜中心。
 これでもかなり余った。

      

 この写真はそれらの余りものを具に、ボロニアソーセージと葱小口切りを加えた翌日の昼の冷やしうどん。具も冷蔵庫で冷やしたままだから、前日の味とはまた違った食感で、冷たい皿うどん風との相性も悪くない。

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尾張瀬戸へ行く・6 瀬戸電に乗ってやがて80年

2024-07-02 00:57:07 | 想い出を掘り起こす

 瀬戸への小旅行について書くつもりだったのですが、つい私の生まれた一族の物語になってしまいました。一族といっても、その出発点において、外部へ出された姉と私にとっては、あくまでも外部から観覧すると言う類のものでした。私たちの生活は、その一族とは離れたところで、既にそれぞれが新しい家族の中で過ごし、それなりの歴史を作り上げていたからです。
 ですから、この物語はこの辺で切り上げ、肝心の瀬戸について書くことにします。

           
      以下、5枚の写真はいずれも瀬戸蔵ミュージアムでの瀬戸電関連の写真

 足を運んだ瀬戸蔵ミュージアムについては、館内の写真などを既に何枚も載せてきましたが、ここの展示物のひとつのみものは、現在の名鉄瀬戸線、かつてのいわゆる瀬戸電についての歴史を垣間見ることができることでもあります。まずミュージアムの入り口には、瀬戸電といわれた頃の車両が展示され、しかもその車両は、現在の駅舎になる前の古い尾張瀬戸駅の駅舎の再現とともに、そこに停車しているように展示されています。これは両者ともに、私にはとても懐かしいものなのです。なぜなら、私はまさにこの車両によって、この古い駅舎へ到着していたからです。

                

 瀬戸電の歴史をひもとけば、それは、現在のような旅客運送というよりもむしろ貨物運送のために開発されたといます。では、その貨物とは何だったのでしょうか。それこそが、瀬戸の産物、いわゆる瀬戸物の運送なのでした。
 もちろん近くの大都市名古屋への運送とそれを経由して全国へということもありましたが、むしろ、海外への輸出のための運送でもありました。

 そのためには、まず名古屋まで運び、さらには名古屋港まで運ばなければならなかったのですが、しかし当時は今のようにトラック便が行き交う状況ではなかったので、名古屋から名古屋港までは堀川運河を船便で下るという手段をとっていました。
 そのため、瀬戸電の名古屋での終点は、今のように、中心部の栄町の地下駅ではなく、まさにその名の通り「堀川」と言う運河沿いの駅だったのです(その貨物も廃止され、栄町が名古屋の終着駅になったのは1978年のことです)。

     

 ですからかつての瀬戸電は、名古屋の堀川から尾張瀬戸までの経路で、私が子どもの頃、母とともに瀬戸の親戚へいったりする際には、疎開先の大垣郊外の美濃赤坂線の荒尾駅から大垣へ出て、そこから名古屋へ、そして市電で堀川、そこからが瀬戸電でした。
 いまから4分の3世紀ほど前のことですが、その頃はまだ貨物列車も健在で、黒い小型の電気機関車が、貨物を引っ張っていたのを目撃している。

 瀬戸電の堀川からの経路はいささかスリリングでした。路線はやがて、名古屋城の外堀の中を走るのですが、当初は 名古屋城の正面を通り抜けるようにして東へ進み、やがて東外堀の辺で お堀の直角のカーブを北へと回ります。ほぼ直角に近いカーブ、線路の軋み、あえぐような電車の進行、ここがかつての瀬戸電の最大の見所だったのではないでしょうか。

            

 曲がり切るとやがて土居下に差し掛かります。ここはかつて、尾張藩の忍者集団、土居下衆が住んでいたところで、名古屋城が陥ちるような危機の折、城内よりここまでの秘密のトンネルで脱出してきた藩主を土居下衆が守護し、いまの黒川沿いに北上し、尾張藩家老の居城だった犬山城まで落ち延びてゆくといわれたものです。

      

 話が逸れました。瀬戸蔵ミュージアムの瀬戸電の展示に戻りましょう。
 駅舎の外部、内部の展示は私の記憶にあるものです。展示されている車両はモ700形で1962年からのものだといいますから、私の子どもの頃乗ったのはもっと古い車両だったことになります。
 そこで検索してみたら、1925年から60年ぐらいまではホ101形という車両が走っていたとありました。私が記憶してる瀬戸行きは1940年代中頃から後半ですから、このホ101形のお世話になっていたことになります。

          

        瀬戸電を走っていたホ101形電車 パンタグラフがポール方式

 これらの写真を見ると、いまはもうどこへいってもみられないポール状のパンタグラフです。
 この時代の瀬戸電は私にとって忘れがたいものですが、それとともに疎開先から帰った岐阜の市街電車(これも名鉄)もくっきりと記憶に残っています。
 この少年時代の私の記憶に深く残る電車の共通点は、ともにポール状のパンタグラフを備えたものでした。
 このポール状のパンタグラフ、終着駅で方向転換をするとき、運転手がロープ状のもので、パンタグラフの角度を進行方向の背後の方角へと変えていました。

      

  これは東京都電のものだが、同じタイプのものが岐阜市街電車としても走っていた

 古い鉄道は郷愁をそそります。それは、かつての人たちは自分の住居を離れて旅する機会が少なかったことによるでしょう。
 したがって、自分たちが身近で利用した鉄道、そして一定地点への移動として乗っていたある鉄道、さらにはたまたま行くために、あるいは行った先で乗った鉄道が強いインパクトをもって記憶に残るからでしょう。

 そんなこともあってか、私にとっては「名古屋鉄道瀬戸線」というより「瀬戸電」が心に残るのです。

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