kekeさんのテストが終わった。
今日の朝、また私は「昨日のテストはうまくできた・・・?」なんて独り言めいた言葉をブツブツ言って、kekeに怒られたのであった。
(あんなに怒ってて、もしかしたら、上手く行かなかったのかなぁ・・・)
ここの所、うんと遅くまで灯りがついていたようで、それが必ずしも勉強していたのかどうかは定かではないのだが、少なくても『勉強しなきゃ』と本人が思っている事は随所で分かっていた。
だから、この結果がどうなっても、私はもういいのだった。
しかし。
行きたい学校に晴れて行けたか、あまり希望していない学校に行かざるを得なくなったか、それともみんな拒否されて、どうしようもない事態に陥るかで、この後の息子の人生が流転流転するようで、私は怖いのである。こういう時に、高校一年生の事件が続いたり、鳥インフルエンザのニュースまでやってきて、ますます心配になってしまう。
昨日紹介した山本ふみこさんの「暮らしのポケット」を読み進めていくと、次の文章に出会う。
母というものは、子どものためにどんなことでもしてやりたいと願いながら、その実いざというときは、してやれることが少ないものだ。祈ったり、念じたりするほかないという場面がいくらでもある。
そして、娘を事故で亡くした大伯母様が、その後他の子供のために大好きなスイカを断った話が書いてある。
私のスケールはかなり小さいが、何もしてやれないので、せめて祈ったり念じたりして、どうにか上手く行ってほしいと思う。
そこで思い出したのが、私の高校受験の時。
(もう寝たきりだったと思う)祖母が、分厚い高校受験案内の本で、私の受験校を探して、『必勝』と書いたしおりをはさんでくれたのだ。
まぁ、その時は「あら、おばあちゃんがこんな事してるよ」くらいの反応だったのだが、この話をよく母が覚えていて、おばあちゃんの話になると、必ずこの話が出てくるのである。
あぁ、そうか。おばあちゃんも祈ったり念じたりしていたのだろうか。
そして、それをいつまでも覚えていた母も、同じように祈っていてくれていたのだろうか。
もしかしたら、こんな気持で。