津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■奇跡・秀林院さまの血

2025-02-08 07:14:35 | 自分史

 かって、男系では治年公で途絶えたガラシャ夫人(明智玉=秀林院)の血が、細川内膳家から脈々と護熙さまに繋がることを、かって明らかにされた文章(茶道雑誌 2014・9月号掲載-殿様の好奇心、細川家多士済々)をお送り頂いたことがある。■ガラシャ夫人の血は細川宗家に受け継がれていた

現在、この文章をベースにしたと思われる系図があるサイトで紹介されている。
          系図で見てみよう(細川家/細川護熙サン)

 私も「細川家主要家臣系図」を眺めながら、何方かにガラシャの血が流れているかを検証したことがある。
内膳家は勿論、刑部家には7代目が嫡家・宜紀の七男興形が養嗣子となったため、その直系(嫡家ではない)と、興形の二男が養嗣子となった嫡家5代の分家、弟・興恒の家系にも受け継がれている。

 私が「肥後古流」のお茶道を稽古していた50年以上前、お茶会などで泰勝寺に出入りしていたころ邸内の御屋敷の一画に長岡度生様がお住まいであった。
度生様は、細川刑部家の新分家筋に当たられるが、遡ると嫡家6代興形(実・細川重賢弟)の子・興度を初代とする家である。ここまではガラシャの血が流れている。
3代目は、私が何度か取り上げた朽木定彦が養子となって入った。細川齊茲の弟が朽木家養子となり、病弱であったため実家である宇土細川家へ帰ったが、その子定彦は紆余曲折の上刑部家分家に養子として入った。
定彦の妻が家女であればガラシャの血は受け継がれたが、詳細は判らない。

 そんな度生様に初めて御挨拶した時、私の名字に気が付かれて「御役間におられたSさんの・・」と仰るので、「孫です」とご返事をしたが、以来大変親しくしていただいた。
いろんなお話をした中で、「祖父の母親の実家は沼田家です」と申しあげたら、「秀林院様(ガラシャ夫人)の血は家老の米田・沼田家にも流れている」とおっしゃったことを鮮明に記憶している。

「沼田の家にガラシャの血が流れている」というお話は、なかなか理解できないでいたが、細川忠利の末子・長岡元知の嫡子が生母・吟の実家米田家の養嗣子となり5代・是庸となった。
その娘が沼田家5代の兼辰に嫁いでいて、その子・元昭にガラシャの血が受け継がれている。

 曾祖母の実家である沼田家は4代延将の二人の弟がそれぞれ「江戸證人」を勤めたためそれぞれ500石を分知された分家である。
上通沼田家と云われる延春を初代とする「門太家(8代)」だが、7代・子之助は本家8代延久の弟である。
ガラシャの血がここにも受け継がれていた。そして私の高祖母(上田久兵衛室)は9代・九兵衛の娘である。

 私の又従兄弟(はとこ)は、ガラシャ夫人に殉死した金津助十郎の末である。助十郎の子供である二人の兄弟が禄を頂戴してニ家の金津家が明治に至っているが、その弟の方・助次郎の家系である。
私の父の従妹が金津家に嫁いだ。つまり、ガラシャに殉死した家の子孫にガラシャの血が流れていた。身近なところでも系図をたどりたどりいくとこんな奇跡に出くわす。

    

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