「功名が辻」で、細川藤孝、明智光秀、堀尾茂助、中村一氏など、後の細川家ゆかりの人たちが登場して、ちょっと目が離せない。中村一氏のご子孫にはご厚誼をいただいているが、お一人は在熊の肥後金春流十三代M氏、もうお一人は田辺城籠城で城を脱出して禁裏への使いを果たした中村甚左衛門のご子孫TS氏である。中村氏の枝葉は大きく広がっているが、歌舞伎の中村勘三郎も一族である。「赤穂義士資料館」のS氏からのご教示によると、赤穂浅野家の臣奥野氏も中村一族だそうだ。中村奥右衛門が主君の命により、奥右衛門の「奥」に浅野家の「野」を拝領して、奥野と名乗りを替えたのだそうだ。
肥後金春流中村家には、皆伝を得るための大名等の起請文が数多く残されている。赤穂奥野氏の関係ではないが、浅野長矩の爺さまや、あぐり様のお父君の物等も残されている。(血判が押されているから、血液型が分るかも知れない。)
話は飛ぶが、吉良上野介の次女の名は「あぐり」、奇しくも浅野長矩室と同名である。旗本津軽采女の奥方だそうな。采女は風流な人であったらしく、釣りの書「何羨録(かせんろく)」を著している。「津軽」というからには津軽の「津軽」さんの一族だろうか。幕末の「津軽」さんは細川の血で繋がっている。
肥後金春流中村家には、皆伝を得るための大名等の起請文が数多く残されている。赤穂奥野氏の関係ではないが、浅野長矩の爺さまや、あぐり様のお父君の物等も残されている。(血判が押されているから、血液型が分るかも知れない。)
話は飛ぶが、吉良上野介の次女の名は「あぐり」、奇しくも浅野長矩室と同名である。旗本津軽采女の奥方だそうな。采女は風流な人であったらしく、釣りの書「何羨録(かせんろく)」を著している。「津軽」というからには津軽の「津軽」さんの一族だろうか。幕末の「津軽」さんは細川の血で繋がっている。