白井家初代・太左衛門尉は薩摩島津家々老喜入摂津守忠續の伯母聟。忠續より依頼あり長岡佐渡取次にて寛永十年忠利に召出され、知行三百石、小性組。正保元年三月二日、江戸にて乱心者のため深手を負い、程なく歿した。
「勤談跡覧-肥後藩之切支丹」によると転切支丹だとされ、「寛永十三年七月十三日 法華宗に罷成り・・」との記述がある。又上妻博之先生の「肥後藩の切支丹史」には「私家来轉切支丹白井太左衛門系」とする系図が紹介されている。
喜入(島津)忠續とは鹿籠(現・鹿児島枕崎)の領主。季久四男として元亀二年生る。初名忠政。又長重。攝津守。元和頃より國家老。正保二年三月十八日歿。年七五。
長岡佐渡とは松井興長のことであるが、喜入忠續との関係がいかなるものであったのか興味深い。
代々三百石をもって明治に至った。
「勤談跡覧-肥後藩之切支丹」によると転切支丹だとされ、「寛永十三年七月十三日 法華宗に罷成り・・」との記述がある。又上妻博之先生の「肥後藩の切支丹史」には「私家来轉切支丹白井太左衛門系」とする系図が紹介されている。
喜入(島津)忠續とは鹿籠(現・鹿児島枕崎)の領主。季久四男として元亀二年生る。初名忠政。又長重。攝津守。元和頃より國家老。正保二年三月十八日歿。年七五。
長岡佐渡とは松井興長のことであるが、喜入忠續との関係がいかなるものであったのか興味深い。
代々三百石をもって明治に至った。