水足半助安直という人がある。「肥後人名辞書」は次の様に紹介する。
水足屏山 名は安直、字は仲敬、半助と称し屏山と号す。昧斎漁軒、成章堂等の別号あり。
浅見絅斎に学び經義文辞皆顕はる。藩の文学となり禄百石を受く。弟子殆ど千
人、著書百余巻、家難によりて歿し、家禄を除かる。時に享保十七年四月九日、
享年六十二。飽託郡池上村谷小崎に葬りしが、後年菊池郡黒石本宗に改葬す。
水足氏は山城国水垂(ミズタリ)村の人で、大阪川船頭であった初代五郎右衛門が忠利に仕えたことに始まる。五郎右衛門の子、兵九郎・吉兵衛と兵九郎の子五助の二流三家が明治に至っている。
さて、屏山は吉兵衛の二男(三代・庄三郎弟)とされるが、「肥後人名辞書」はその死を「家難によりて」と記している。その詳細については「續肥後先哲偉蹟-巻二」に次ぎのように記す。
享保十七年四月九日、屏山妻前原氏、近隣の笠井源右衛門と密通せしことを聞きて、博泉(嫡子)と
共に、笠井を打果に行きて、笠井が設けし機に陥て、父子共に手負へり、同村居住の長谷川忠右衛門、
吉田善右衛門、同嫡子平九郎三人馳付、笠井を討捨たり、屏山は其日歿せり、博泉は治療平癒の後、
暇を賜はりて家亡ひたり
なんとも悲惨な話しではある。博泉も父・屏山に劣らぬ優秀な人物であったが、母の過ちによってあたら人生を棒に振ってしまった。
水足屏山 名は安直、字は仲敬、半助と称し屏山と号す。昧斎漁軒、成章堂等の別号あり。
浅見絅斎に学び經義文辞皆顕はる。藩の文学となり禄百石を受く。弟子殆ど千
人、著書百余巻、家難によりて歿し、家禄を除かる。時に享保十七年四月九日、
享年六十二。飽託郡池上村谷小崎に葬りしが、後年菊池郡黒石本宗に改葬す。
水足氏は山城国水垂(ミズタリ)村の人で、大阪川船頭であった初代五郎右衛門が忠利に仕えたことに始まる。五郎右衛門の子、兵九郎・吉兵衛と兵九郎の子五助の二流三家が明治に至っている。
さて、屏山は吉兵衛の二男(三代・庄三郎弟)とされるが、「肥後人名辞書」はその死を「家難によりて」と記している。その詳細については「續肥後先哲偉蹟-巻二」に次ぎのように記す。
享保十七年四月九日、屏山妻前原氏、近隣の笠井源右衛門と密通せしことを聞きて、博泉(嫡子)と
共に、笠井を打果に行きて、笠井が設けし機に陥て、父子共に手負へり、同村居住の長谷川忠右衛門、
吉田善右衛門、同嫡子平九郎三人馳付、笠井を討捨たり、屏山は其日歿せり、博泉は治療平癒の後、
暇を賜はりて家亡ひたり
なんとも悲惨な話しではある。博泉も父・屏山に劣らぬ優秀な人物であったが、母の過ちによってあたら人生を棒に振ってしまった。