
源蔵の 徳利をかくす 吹雪かな 夏目漱石
12月14日深夜(15日未明)赤穂浪士が吉良上野介の屋敷に討入り、見事主君の仇を討った。その中に赤埴源蔵がいたが、有名な「徳利の分れ」を主題とした夏目漱石の詠史句である。赤垣と呼ばれることがあるが、赤埴が本当である。
不在の兄(実際は妹聟)の代わりに羽織を借りて話しかけるあのシーンは、涙もろい私は何度となくほろりと涙した思い出がある。
内蔵助の南部坂の別れと双璧と言えるだろう。赤埴源蔵は討入り後、細川家に同志16人と共に預けられた。
介錯役は中村角大夫だが、この人物については勉強不足で詳細を知らないでいる。
赤埴重賢 芳野 金陵
赤埴重賢、通稱源藏、鹽山氏。世仕龍野侯、出爲赤穂赤埴某義子。補馬廻、食祿二百石。爲人勇毅忠直、嗜酒。
元祿中、赤穂侯傷吉良義央于幕府、以大不敬、即日賜死封除。命侯弟長廣屏居、尋収城。闔藩恇擾、鳥竄獸走。其刺血而誓、終始一節、執義不變者四十七人。重賢其一也。各自變姓名、四散韜晦、以待官處措長廣及義央焉。重賢則改高畑源野右衞門、縱飲賭博、蕩然無檢束。蓬髪敝衣、數就兄乞貸。比鄰指笑、毫無恥色也。
後久不來。一日提酒一壜來問。糟氣蓬勃。時雨雪、身穿赤紙油衣。謂嫂氏曰、久不拜晤伯兄。今將有遠行。因欲對斟爲別。嫂曰、歳將改、公事如襲。今朝奉命使各方。還必晩矣。重賢曰、上程有期、不得再過。暫竢其歸。時時問漏刻。已而曰、晩甚。請分一壜、半以奉之伯兄、半以温之賜重賢。聊以擬獻酬。乃喫徐徐、傾耳屐聲數矣。曰、重賢往矣、不得謁也。煩嫂氏。爲善致意。顧望踟蹰而去。兄歸聞之曰、噫、彼猶且然乎。嘆吁久之。
重賢已去、抵堀部金丸之家、與同盟訣飲。改爲救火裝、約曰、不幸事不成、皆自屠而死。良雄執之節度、抵義央邸。斫前後門而齊入、踴躍力戰。間光興槍義央殪之。衆欣舞、帛裹其首、懸之槍竿。重賢與矢田助武留、灌水竈爐、戒火而去。共赴泉岳寺、獻首侯墓前、拜跪報状、請罪監察。官分拘之四藩。明年二月四日、賜自刃。重賢年三十五。
其兄嘆曰、彼成此大事。所以沈湎自晦也。予不察、屢辱之。彼必以我爲痴呆。不面而死別、豈徒吾弟之遺憾。壜是吾弟之遺念也。抱以泣。龍野侯聞之、取而視之、感激之餘、椅桐製匣、親書忠義利四字與之。邦人稱壜曰利。所謂貧乏利者是也。
又傳、重賢從事之前、乘雪問妹夫某、對酌盡懽。與小刀于其子、陰以爲遺念。今不知其所在也。
嗟、爲遺念者埋沒、而所倒棄者則存。物亦有幸不幸歟。當時傳聞、來觀其壜者、撫摩或至泣下。今寳藏于家。今之主人曰勘之助云。
野史氏曰、天下之遺屨、可以埋澤矣、天下之棄壜、可以成山矣。而天祥之屨、重賢之壜、後世韜櫝珍襲、使人感激揮涙者何也。非以有其精忠鴻義之祗異哉。今也郡縣制立、四海一君、匹夫匹婦、皆其臣民。則斯道也、不可不以講明也。赤穗遺臣之事、誠足以敦薄俗、振民風焉。雖一磁壜之微、予惜其湮沒。因縷記而表之。