昨日一枚のCDが送られてきた。史談会の会員O・F氏からである。その内容については大方の予想がついていた。
実は氏は先年「藩邸沿革」という、細川宗家・宇土支藩・新田藩・谷田部藩・相良藩・加藤清正邸等々の江戸藩邸について研究をされ大部の報告書を物にされた。現在熊本県立図書館に置かれている。私にはデータ―を拝受するというご厚意を得た。
今般のご研究は「熊本城下の坂」である。熊本城は茶臼山に作られた城であり、多くの坂道が存在する。今では名前も忘れられたり、現代の街中で存在がうすれたりしているが、氏はかすかな史料を追尾されて、またまたすばらしい報告書を完成された。60数ページに及ぶものである。
写真や古地図などで詳しく当時の有様を表示してあり、せの詳しさに驚いている。
この報告書を今後どう活用していくのかも課題となる処である。氏のご努力に敬意を表し、まえがき・目次相当部分をご紹介する。
「熊本城下の坂」
高山彦九郎日記に、『藪氏に入りて語り、慶宅坂を下る時に高本教授に逢ふて其に入る』。別な日には、『夜に入りて洗馬橋を渡り塩屋町を過ぎ、右へ新二丁目蔚山町堀ばたへ出て切通を過ぐ、豆腐谷と号す』。
桃文之助は西遊日記で、『当所の地理を覚え候為に、案内者を召し連れ城下内を徘徊致す。先ず観昔坂より京町辺、夫よりニノ丸内へ入る』。
河井継之助は塵坪で、『百間石垣の下を通り木下眞太郎へ往く。木下へ土産のため菓子屋のよき所へ立寄り尋し所、朝鮮飴とて諸國へ廻る当所の名産あり』、とそれぞれ書き残している。
慶宅坂・観昔坂は何処にあり、慶宅とはどんなネーミングなのか、高本教授・木下眞太郎は彼らとどういった交友があり、屋敷は何処にあったのか。朝鮮飴の菓子屋の屋号は何でどこの町内にあったのか、など彼らの足跡を辿ってこれらの事物を調べてゆくことは、当時の肥後の地誌民俗歴史を知り得、ハダで感じることが出来ることにもなって興味は尽きない。熊本城下(府内)にエリアを定め、坂の所在を確認する。坂の出典は、肥後國誌・肥集録・地名事典などから求め、坂の様子風景などは各種資料から参照引用し、現地を確認して写真を添えた。
〔目次〕 頁番号はWORDの仕様上、頁の上下交互に付いている。本書はB4サイズ。
一 各種史料に見る坂 1
一 肥集録原本写真 2
*熊本城内エリア
一 薬師坂 槇島坂 3
一 砂薬師坂/古京町坂 4
一 柊木坂 6
一 法華坂 8
一 棒庵坂 9
一 監物屋敷下坂 10
一 左仲屋敷下坂 10
一 慶宅坂 12
一 鞍掛坂 13
一 南坂 14
一 古城坂 15
一 津川屋敷下坂 同南坂 15
一 千葉城坂 16
一 (宮本武蔵旧宅) 17
一 大木屋敷下坂 18
一 宮内坂 19
一 宮内新坂 19
一 沼田屋敷下坂 20
一 (豆腐谷) 21
一 六所宮前坂 22
一 山崎口坂 23
一 (熊本城点景) 24
*京町台東崖エリア
一 観音坂 25
一 中坂 春木坂 26
一 堀部屋敷下ル坂 27
一 牛縊坂 28
一 新坂 29
一 迫門坂 三年坂 30
*京町台西崖エリア
一 赤尾口の坂 31
一 釋将寺坂 31
一 榎木坂 32
一 新道坂 33
一 入道坂 梯子坂 34
一 雁木坂 雲晴庵坂 34
一 伊庭(射場)坂 35
一 西方寺坂 円光寺坂 35
一 岩立坂 36
一 竜迫谷坂 一身坂 36
一 新坂 七曲り坂 37
一 錦坂 39
一 (錦橋 錦山神社) 40
一 (余滴) 41
一 (南京町の旧町名) 42
*手取・高田原・山崎エリア
一 禿坂 山崎天神前坂 43
一 お伊勢坂 三年坂 44
一 声取坂 わくど坂 45
一 三年坂 上月屋敷下坂46
一 錦嚢移文、雑撰録に見る坂47~49
一 場所不明の坂 50
一 (余滴)追廻田畑51~56
一 わくど坂 57
一 長六橋 58~59
一 祭文 お城焼失 60
〔索引〕〔地名施設〕頁順 は略す 責・津々堂
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〔主な参考引用資料〕
*坂の出典----肥後國誌、肥集録、肥藩叢録、平凡社・熊本県の地名、市政だより・ふるさと、熊本城みてある記、
雑撰録、錦嚢移文、他
*絵図地図----新熊本市史・絵図地図編、熊本県立図書館所蔵絵図、熊本大学永青文庫研究センター刊本、熊本市立図書
館及び博物館所蔵図 他
*藩士の家譜---津々堂HP・新肥後細川藩侍帳、細川家系譜
熊本城下の坂
平成二十五年九月
編纂 藤本修
自家本