津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■豪潮の壬辰元旦の試筆

2025-01-07 09:27:38 | オークション

 お正月のこの時期に、熊本が生んだ天台宗の高僧・豪潮律師の「壬辰元旦」の試筆(書初め)がヤフオクに出品されていた。(すでに完了)
肥後三筆とも言われる豪潮の筆跡は、私にはなかなか判読が困難であるが、詳細な説明文も添えられていて大いに勉強になる。
この七言絶句、内容が高尚でその大意をつかみきれないでいる。どなたかご教示給わればありがたい。

 

  

         互挨一転一          互に挨す一転一の
         我詩 雪裏花         我詩 /雪裏花
         開梅一枝 三拝        開かんとす梅一枝 /三拝の
         爐中香未迭 海        爐中香未だ迭せず/
         東先照太初儀         海東先に照らす太初の儀

          壬辰元旦           壬辰(天保三年)元旦
         試筆             試筆
         九々年前三歳豪潮(花押)   八十四歳 豪潮

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■小倉藩、忠利襲封と忠興

2025-01-07 07:45:56 | ご挨拶

 元和七年(1621)の今日一月七日、細川小倉藩を忠利が襲封した。忠利36歳(天正十四年‐1586)である。
慶長五年(1600)の暮れに忠興は小倉入りしているから、その治世は20年と数日ということになる。
忠興は前年、「以之外ニ御煩い」と形容される如く、命に係るのではないかというな大病を患い、さすがに隠居を決意した。

 以前ご紹介した■大日本近世史料・細川家史料「忠興文書-元和六年」を読む (2)に於いては、その時期のあわただしさが見て取れる。

226、閏十二月七日書状(忠興十一月七日江戸到着、忠利ハ同月廿八日江戸出立・帰国ノ途ニ就ク)
 ・忠興病ム
 ・忠利先月十五日吉田参著、女御ヘノ祝儀ヲ済シ下国ス

*忠興元和六年閏十二月廿五日致仕、薙髪シテ三斎宗立ト號ス、
 元和七年四月十日帰国ノ途次、京都吉田ニ立寄リ、ヤガテ帰国シ、小倉ヨリ中津ニ移ル
 忠利モ江戸ヨリ帰国、封ヲ嗣ギ、六月廿三日中津ヨリ小倉ニ移ル
1911、烏丸萬宛閏十二月廿五日書状(大日本近世史料・細川家史料八 p72~73)

 愛娘である烏丸光賢簾中・萬姫の見舞状に対し、病み上がりの忠興(三斎)は誠に穏やかな返事(1911ー元和六年十二月廿五日付)を認めている。
「気力もなく、文をみることも書くこともなり候はぬ」としながらも、忠利への家督を決意した安堵感からか「われ/\はうすになり候て、つらを見申候へは、そのまゝゆうさいにてわれなからもきもをつふし申候、かどう(歌道)をしらぬゆうさいと御おもひ候へく候」と、髪が薄くなり顔つきがすっかり父・幽齋に似てきたと冗談がましい一文を呈している。
しかし忠興はまだ58歳である。寛永九年(1632)忠利が大国・肥後を拝領しようとは思いもよらぬこの時期である。


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