「度支彙凾文政元より五迄 法令條諭」の「九〇八」に次のような記事がある。
一太守様舊臘廿九日依召御登城被成候處、篤姫様御事、細
川中務少輔殿え御縁組御願之通被仰出候段、御到來有之、
奉恐悦候、此段為被奉承知申達候條、御支配方えも可被
相知候、以上
文政五午正月廿三日 奉行所
この記事にある「太守様」は細川齊樹である。
「太守様が前年十二月廿九日お召しにより、登城成された処、篤姫(齊樹二女)を、支藩の細川中務少輔(立政)との縁組について願い出ていたところ、願いの通り仰せい出された。その旨が国許へ到来恐悦奉る。この段を承知為され申し達するので支配方へも相知らせるように」との意である。
つまり齊樹は二女・篤姫を実兄の宇土支藩主8代・立之の嫡子・立政に嫁がせたいと幕府に届けており、これが認められたことを表している。
当時立政は19歳、篤姫12歳、従兄妹同志の結婚話である。齊樹には二女があるが共に側室の子だが、正室・紀姫(一橋大納言治済女)が篤姫を養女とした。
しかし、この結婚は短いもので篤姫が14歳でなくなっており、妙解院に葬られた。
又、神奈川県鎌倉市の名越にある妙法寺にも祀られている。
妙法寺は、11代将軍家斉はじめ将軍家および徳川御三家、肥後細川家などの尊崇を集めた。
総門、仁王門、法華堂が朱塗りであるのは将軍家斉を迎えるためであったとされ、明治中期までは境内に将軍御成の
間が遺されていた。また、現在の本堂は文政年間に肥後細川家により、幼くして亡くなった細川家息女の菩提を弔う
ため建立されたものである。(ウイキペディアより引用、一部書き替え)
ちなみに紀姫の父・一橋大納言治済は、将軍家斉の実父であるから家斉と紀姫は異母兄妹の間柄である。
今年の大河ドラマ「べらぼう」でも、その存在感が伺える。
そして、のちに立政は齊樹の継嗣となり本家を継ぎ、齊護と改名した。