寛永廿(1643)年の今日正月八日、細川家5代当主・綱利が誕生している。
生母は清高院、父光尚は清高院の懐妊を報告されると「堕す」ように指示したという話が残っている。
光尚の母・保壽院付の岩間六兵衛が預かり、岩間の小屋でお六(綱利)が誕生した。
「お六」の名は六兵衛の「六」からきていると岩間家の記録に残るが、如何なものであろうか。
光尚が「堕す」ように指示したという話は、その原因については触れられていない。
清高院のその後の華美な生活ぶりが、つとに語り継がれているがそんなことが原因であったかもしれない。
そして、その出自については、最終的には京都牢人・志水道是の娘・吉だとされる。元和五年(1620)六月の生まれだとされるから、24歳の頃の誕生である。
記録によると
寛永十九年閏九月十五日の岩間六兵衛から長岡監物宛書状(抜粋)
懐妊之者御満足ニ被思召候通被仰下候、親ハたいかうのそうせふ様御内ニ而内海但馬と申候、
此そうせふの儀ハ只今之広橋大納言御舎弟ニ而御座候、すしょうもあまりあしき物ニてハ無
御座候間、先々大慶ニ存候、以下略
親は志水道是の筈なのだが、太閤の曽祖父の御内の内海但馬という人物だとしている。そして広橋大納言の弟だとし、「素性悪しき者」ではないと報告している。
六兵衛は「まずは良かった」と安堵の態が見て取れる。
そして志水道是について「於豊前小倉御侍帳」に於いては、清水大納言だと記し、別の史料では「京都住 慶安三年肥後下向、城内竹之丸居住 万治元年、合力米三千俵・百人扶持 寛永(文)三年二月三日歿」と記す資料がある。
一旦「堕す」ように指示した父・光尚だが、六兵衛の屋敷で生まれた子が男子だと報告されると、母子ともども受け入れている。其の後清高院は綱利の弟・利重(新田藩藩主)をも生み、生母として盤石の地位を得た。
しかし生活は乱れ、筆頭家老・松井興長その他から幾たびも諫言を受けるほどである。
綱利が亡くなったあとには37万両の幕府借入金が明らかとなり、細川家の財政難は慢性的なものとなっていった。
綱利の剛毅な性格は、例えば赤穂義士の接待などで好感を持たれたりしているし、重用されて出頭した人物も多い。
しかし、重賢公による宝暦の改革における「世減の規矩」では、綱利公により新知を得た人たちを境として、旧知・新知の峻別がなされた。
綱利公にとって重賢公は「従兄弟(弟・利重の二男‐宜紀)の子」にあたるが、そうせざるを得ないほどの財政困難をもたらしていた。
誕生の事を書こうと思ったが、批判めいたことばかりに成り申し訳ない次第である。