津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

忠興公年表から(一)

2013-06-22 09:11:59 | 年表

・永禄六年(1563)癸亥十一月十三日、忠興誕生 熊千代・与一郎・越中守・従四位下侍従・少将・従三位宰相・三齋宗立・松向寺殿

・天正二年(1574)甲戌正月十七日、信長の命に因て明智光秀の女御嫁娶之約有之

・天正四年(1576)丙子十一月、十四歳ニ而甲冑御召初

・天正五年(1577)丁丑二月十五日、藤孝君貝塚の一揆攻衆にて御向ひ被成候時、忠興君十五歳ニ而初陳也

・ 同            二月廿二日長尾合戦、三月朔日鈴木孫市居城攻に参加

・ 同            十月朔日河州片岡城攻・・・「忠興君御若年にての御働を、信長公深く御賞美被成、感書を被進候、人皆羨之候と也」

       綿考輯録はこの感状については、その内容を取り上げていない。
       信長直筆の書状であることを証明する、堀秀政の添え状がある貴重な書状だが、綿考輯録の編者小野武次郎はこれを見ることが出来なかっ
       たのかもしれない。 
       追記:実はこの書状については天正七年の丹後攻めにあたっての項に取り上げられている。果してどちらが本当?  6:23/22:22記

                                  

                                               働き手からニて候
                                                         かしく

                                               おりかみ
                                                   披見候
                                               いよ/\
                                                   働候
                                                      事
                                               無油断
                                               馳走候へく候
            
                                                 十月二日

                                                 与一郎殿 

 堀秀政の添状
       御折紙具ニ今披露候処則ち御自筆之披成御書候
       尚以相替儀候ハゝ追々可有御注進旨御意候恐々謹言
                             堀久太郎秀政 判
             十月二日
          長岡与一郎殿
                 御陳所


附けたし
さて此の時、細川軍の勇士・下津権内が戦死した。そのことを忠興は残念に思い「つりを被仰候」と綿考輯録は記している。(巻九p9)
この「つり」とは「吊」の字を当て、「弔=とむらう、弔意」の意がある。ところがここでは「つり」と記してあり興味深い。 

                 

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福島正則の改易と上月文右衛門(三)

2013-06-21 07:41:09 | 史料

綿考輯録・巻二十六(p352)に上月文右衛門召し出しに関わる一文があるので、付けたしとしてご紹介する。

堀内旦夕覚書ニ、真源院様御代に上月文右衛門五千石ニ而被召可抱候、其後八代ニ而三齋公江村上河内申上候は、此比熊本ニ而大身成ルものを被召抱由申上候得ハ、御意ニ肥後は人数寄ニ而候間左様ニ可有之、何と申候者かと御尋之時、上月文右衛門と申、福嶋左衛門大夫殿にて城代勤居候者之由申上候ヘハ、いかにも御聞及被成候者之由御意被成候、河内申上候は最早年か無御座と承及候由申上候得は、以之外御立腹ニ而、扨々侍ニ年かいる物か、今日被召置、早用ニ立侍越後ノ忠太をしらぬかと御意被成候由、其日之内ニ熊本ニ聞申候得ハ、年寄たる侍中何も八代之方を拝し申由、遠坂関内殿御咄承申候、先年十七人之義士御預之刻此咄仕申候得ハ、何も承被申被奉感候、河内も大坂陳ニ而も能壱万石被為拝領候得共、河内申上候言と御意とハ、扨も/\上下之相違と書付置申候、下略

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台風上陸か・・・

2013-06-20 13:22:33 | 熊本

 台風の進路予想図をみると、どうやら熊本への上陸・通過の可能性がでてきた。随分勢力は弱くはなっているが、久々という感じがする。
水害に限らず、台風でも何度も痛い目にあった熊本だが、どうぞお手柔らかに願いたいものだ。どんより曇った空から、ときおり雨を降らせているが、風は昨日程にはない。一昨日・昨日の強風は何だったのだろう・・・・雨は農家の皆様には恵みの雨になったようだが、こちらも程ほどで収まってほしいものだ。 

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福島正則の改易と上月文右衛門(ニ)

2013-06-20 08:02:28 | 史料

右上月八右衛門江戸御留守居相勤候内、長岡筑後在江戸之事有之候、松平出羽守殿ハ御代々御心安く候間、筑後を御振廻八右衛門も御呼被成候、八右衛門儀筑後と一座之儀を断申候得共御心安思召、筑後事ニ候得はゆるゆると御咄も為可被成、一座ニ而御料理被下候段前以被仰聞候由なり、此時鶉之焼物御重箱にて出羽守殿御自身御ひき候、八右衛門前ニ御出候時ハ右之御引物直ニ手に請頂戴いたし候、其時御咄ニ佐州 此時ハ筑後を佐渡と申候也 わかく候間、八右衛門親文右衛門事委細被存ましきと被仰候、筑後如御意年齢ハ違申候得共、文右衛門儀ハ承伝候由、御養申候得は御自身も御年若き時分ニ而、福嶋左衛門大夫御改易ニ付、城請取ニ安藤対馬守其外誰々と被仰候而今度広嶋江罷越候、扨も/\上月文右衛門と申者大夫城代にて候、色々心の付兼可申所迄一々心をつけ残る所なき様子ニ候つる、城代ハ就中大事之役ニ而武功まてニもなく思慮ふかき者ニ可申付と存候、出羽は若く候間能々承置き候へ、と対馬守其外誰々も被申聞候と委細筑後ニ御物語御座候、右之通ゆへ頂戴のうつらを良久敷手にうけ居候而、あつく難儀いたし候段堀内傳右衛門承候由なり、広嶋之城追手之門不断明有之候ニ付、三日油をひたし漸々明立いたし候、数年明立なきかなものにてくされつき候由、其外色々文右衛門心を付候事多有之候となり、八右衛門ハ文右衛門三男則今の八右衛門祖なり、四男十郎右衛門ハ今の文五郎か祖なり、嫡子長右衛門 後ニ文右衛門・二男源助両人之跡ハ断絶いたし候

    考ニ、広嶋之城渡候事ハ福嶋丹後壱人之事のミ諸書ニ見江、上月か事他本ニ而ハ見当不申候、丹波ハ家老なるゆへ城わたし候ニ付而ハ諸事之裁
    判勿論ニ而、既ニ寛永九年三齋君御書ニも丹波か仕方宜きといふ事見江申候、乍然城代ハ上月ニ被申付置たるなるへし、又一書、此節之上使安藤
    対馬守重信 居城上州高崎 ハ、黒田筑前守 居城筑前福岡城 別而之知音なれハ、馳走のため道を付かへ番を置人留被仕候事、世間に其隠なかりけれハ、藤
    堂泉州よりの狂歌に
            関のとを留れハ黒田荒果てひらかて走るいまの百姓
    忠興君御返し
            はゝからす黒田の稲を推つけて道になしても人ハ通らぬ      と云々
    安芸広嶋之城請取ニ筑前之方御通り可有様も無之候、江戸にての事なるや、此所の本文にハ除申候、いつれの年か忠興君豊前より江戸江御出之時
    の御紀行之内ニ右之御贈答有之候、御附録ニ出し置、尚委可考、又説ニ、正則之家士広嶋之城ニ楯籠よし風聞有之候間、忠興君広嶋ニ赴ると有な
    とハ大なる誤なり

                                   綿考輯録(了) 

  上月家記によると嫡子・長右衛門(三千石)・・上月半下ノ系(九百石)、源助(八百石)・八右衛門(七百石)此二系ハ断絶カ離国カセルモノ也、十郎右衛門(五百石)・・上月壽ノ系(五百石)とある。

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台風の進路は・・・?

2013-06-19 10:41:20 | 徒然

一昨日「雨なし・・梅雨明け?」などと書いたら、昨晩は雨となり台風の前触れの風がものすごく吹いて、何度も目を覚まされました。
まだ台湾の東海上あたりを進んでいるようですが、この風の様子は「鹿児島あたりが暴風域か・・」と思わせる感じです。
おかげで気温も30℃を下回り涼しいのですが、湿度が高く体がべたつく感じで、気持ち良いものではありません。
上陸の可能性は薄いようですが、今年初めての台風がよい雨をもたらしてくれるとよいのですが・・・、稲作農家では水不足を案じておられる所もあるようです。
60年前の6・26大水害、そして昨年の大水害、又とこの様な被害が出ないことを祈るばかりです。 

風が唸りを立てて吹いています。

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福島正則の改易と上月文右衛門

2013-06-19 07:17:47 | 史料

(元和五年)五月八日、将軍為御上洛御発輿、廿七日伏見江御着ニ付御出迎被成候、さて於京都御暇之儀可被仰上と思召候得共、福嶋氏江戸ニ而御暇も不被下、御前江出られ候事もならす止り兼たる体也、江戸も御用心之折節なるゆへ御暇之事も難被仰上、御見合被成候内、正則領国安芸・備後被召放旨被仰出、信州河中嶋ニ而四万石被下候   

                                             
                                                 福嶋正則

   一ニ羽州庄内或奥州津軽共有、正則之罪ハ城普請之儀曲事之由被仰出、又々御詫言候へ共申上様首尾致相違、其外御咎之筋七ヶ条と云々、又権
   現様御在世之内ニ五ヶ条之不義を被仰置、改易之砌ハ科状十八ヶ条と云々

右之通ニ付福嶋氏の居城為請取九州之人数被遣事も可有之候、其覚悟仕候得と、六月十二日豊前江御下知有、此船参着次第為御陳用意、八木五千石御家中江わり付借し可申候、弥御人数被遣ニ極り候ハゝ重而銀百貫目御貸可被成候、一左右を可相待旨被仰遣候、広嶋之城ハ主人よりの下知なくハ渡すましき由申候得共、追而正則自筆を以可渡由留守居之侍共江被申越候間、御人数被遣にも不及候なり

    広嶋之城代ハ上月文右衛門と云者なり、親ハ播磨の者にて、福嶋家ニ参り三原之城預り上月豊後と申候由、文右衛門ハ幼少より正則之側ニ召仕れ、
   高麗・関原陳をも勤、其後広嶋之城を預被置候、配所ニも供いたし候処、信州にて正則死去已後京極家江暫くつかへ、又浪人仕京都に罷在候処、光
    尚君より平野権平殿を御使にて可被召使旨ニ而、阮西堂ニも御内証被仰聞候、寛永廿年被召出五千石被下候、文右衛門病死以後嫡子上月長右衛
  門無相違拝領、其以後長右衛門願によりて弟源助ニ八百石、其弟八右衛門ニ七百石、其弟十郎右衛門ニ五百石分知被仰付候、

                                              只今書き込み中 

 

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忠興公、松平姓をお断り

2013-06-18 10:08:10 | 史料

 元和元年十二月廿四日、忠興公は駿府に赴き家康公に御目見し、「大阪之役御武功抜群」として「信国の御脇差」を拝領している。
綿考輯録は時期がはっきりしないが、羽柴姓を改め細川姓に戻したと記されている。(綿考輯録・巻二十 p53)
松平姓を願われてはどうかと土井大炊頭にいわれ、これをことわり徳川姓ならばと思いがけないことをいっている。

   羽柴氏ハ無故して太閤被赦之、御復姓可然由被仰出候間、細川ニ御改被成候、同廿九日江戸御着、土井大炊頭殿御使ニ而御対面可被成由ニ付、
   即日御登城被成候、此時松平を御願可然と土井氏 一ニ伝長老 内意被仰候得共、徳川ならハ御願可被成か、松平ハ源氏之名字ニ而もなく、羽柴と
   同意なる由御返答被成候、大炊殿達而御申候へ共、家之細川にて居候ハんと被仰候、此以前嶋津殿江松平拝領之時も持前之嶋津ニ而可居ニ、い
   らさる儀と被仰候しなり

      (前略)又一書ニ、関原御帰陳之上、秀忠公より大炊頭殿を以御指物御所望被成、同時ニ内意被申候は、松平姓を被遣度御内存ニ候、如何とあ
      れハ、忠興君仰ニ、上よりの被仰付ニ候ヘハ兎角難申上候、御内意と御座候ハゝ迚之事ニ徳川氏を御免被下候ヘハ、一入難有可奉存と被仰候
      ニ付、其後ハ無挨拶退座なりと云々、虚実難計

 

「徳川氏云々」の話はいかな忠興公とて、このような発言はされないだろう。まことに「虚実はかり難い」話ではある。 

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雨なし・・梅雨明け?

2013-06-17 13:16:04 | 徒然

業務用に使っていた複合機が壊れ、修理代が七万円もかかるというのでそのままにしておいたのだが、邪魔になるので昨日廃品回収業者に頼み処分することにした。80キロほどの重さがあるので運び出しの手伝いをしたり、後始末の掃除をしたりして小一時間重労働(・・)をした。史談会の資料つくりなども続いていたので少々疲れがたまり、昨晩は九時過ぎに就寝とした。
それでも今朝は五時半には目が覚めて起き上がってごそごそ始めたので、疲れが取れるはずがない。朝食後いすにもたれて、うつらうつらするありさまである。

やはり暑さがこたえる。今年は節電の御達しもないようなので、クーラーをフル稼働させて身を置いている。そして何に良いのか知らないが、奥方が取り寄せたパラジゥム入りとやらの水をがぶ飲みして脱水症予防をしている。今日は少々曇り空、それでも連日の真夏日予報である。(明日は30℃を割りそうだが・・) 

梅雨入り以来雨が降ったのは三・四日、このまま梅雨なしの梅雨明けなんて事もあるかもしれないですね~

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細川家・黒田家の不仲(2)

2013-06-17 05:33:56 | 史料

      一書に、忠興君丹後より豊前ニ御入国、黒田家へ先納を被返候へと被仰候へとも、とかく云て返し不被申候、依之長岡肥後を為御使被遣候ニ、如
      水虚病をかまへて対面なし、肥後此上ハいつ迄も致逗留、御快気之上ニ忠興口上を申述、百姓共先納之目録を可懸御目候と云て不帰、如水無是
      非対面之時、肥後御口上を述、目録持参仕候と云、如水腹立にて、其目録見るに不及、仰之通ニハ不成事也、と云捨座を被立候を、肥後飛懸り如
      水の袂を取て引居へ、不成儀ハ御返事を持参仕度候、目録をも不懸御目して罷帰、越中守ニ如何申候へき、是非御覧可有と云に依て、如水もだ
      しかたく目録を見、自分之存年をも委く申述、角ハあれとも越中殿と我等の間柄なれハ、取込たる物なれハ返還すへしと被申、肥後又申候ハ、左様
      ニ思召候ハゝ此目録の裏ニ御墨付を可被下と望て、判形を取て帰り忠興君に懸御目候ヘハ、殊之外御感ニて、我等行ならは如水と討果す外ハ有
      間敷に、其方をを遣したる故本意を遂たり、とかく人を不持してハ国治りかたき事也、と御褒美ニて御腰之物を被下候、其後如水より博多之浜まて
      俵物をはこばせ、浜にて御請取候へと被申、此方よりハ小倉まて積越給はれとの相論にて、右の俵博多の浜にてくさり候也、是よりして黒田家と御
      義絶ニ被及候と云々、いふかし 
      一説、黒田家と御不通の事先納出入之時よりと云伝ふ、然ニ慶長九年忠興公御病気之節、如水軒より御見廻以使者猿引の絵の御屏風進られ候
      と申伝と云々、重而可考 
      一書、此砌家康公駿府ニ御座候而、忠興君・黒田殿なとも駿府ニ御出之様ニ記シ、或ハ六月廿日ころ忠興君仲津御下着、黒田氏と先納之御取違
      有之、御中違ニ成候なと有ハ誤なるへし、又一書、忠興公より菅村主水といふ者を如水江御使者ニ被遣、御返答申上候時、外ニ替る事ハなきかと
      御尋被成候、主水申上候ハ、色々御馳走にて前かと御家ニ被召仕候何某挨拶ニ罷出候か、立身ニ而結構に被召候間、私儀も御暇申参候へ、其
      身よりハ能成可申由申聞候故、世上にて武功の侍ハ黒田家ハ望不申由答候ヘハ、何とて左様ニハ申候やと尋申候間、其方も定而聞及はるへし、
      黒田家の士十人に紀伊谷百姓の棒一本と世俗に出申候、何程結構ニ被召仕候共我等ハ望ニ不存と申候ヘハ、何某赤面仕候と申上候、忠興公甚
      御機嫌ニて、扨々能申たり、とて御差被成候御脇差を直ニ被為拝領候となり、主水ハ領地七百石にて菅村藤兵衛先祖之由也と云々、此御使之事
      も先納出入之砌なるへきか、然処菅村主水と申者菅村藤兵衛先祖と有之候へ共、菅村か先祖附ニ主水と申者ハ見へ不申候、菅村事慶長十年ニ
      詳ニ出
      一説、家康公天下御一統の初、九州ニさハかりの大名多く有之候間、御互ニ御入魂候而は公義御首尾もいかゝと有御遠慮にて、忠興君・黒田氏
      被仰合、わさと御中違にて御忠節之一ツに被成候と云々、いふかし

一、五月廿五日、御下国の御暇被仰上為御前ニ御出被成候処、御懇共ニ而御鷹拝領被成候、此事等忠興君江被仰遣候、廿五日御書之内
  一、茶無之由候間、いからき壺一ツ下候、其外之道具ともある所より注文にて参候事
  一、先納の儀相すミ候間今日下国候、御暇可申上ため御前ニ罷出候処、一段仕合ニて御鷹拝領申候、可心安候、猶豊前より可申候、恐々謹言

                                      (松井康之に関わる記事あるも略之) 

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細川右京(内膳)家資料集

2013-06-16 13:56:16 | 書籍・読書

 

                                                                     細川右京家資料集 
右京家にまつわる史料を1冊に
 
編著:菅芳生
体裁:A4判、並製本、128ページ
出版年月日:2013年6月1日
ISBN:978-4-87755-429-3 C0021
定価:6,300円(本体6,000円+税)
発行:右京家細川事務所
制作・発売:熊日情報文化センター

 

内容
肥後細川家初代の細川幽斎と明智光秀を祖父とする細川忠隆(忠興長男)。一門首座として生きた右京家(通称内膳家)にまつわる史料を1冊にまとめた。
一門、連枝、熊本藩各家の妻の出自にもスポットを当て調査。そこから上級武士たちの人間関係もうかがい知ることができる。

著者紹介
菅芳生氏は細川忠隆(忠興長男)の子孫である隆春氏(第5代出水神社宮司)の外孫。熊本市島崎にある同家墓所の継承者。


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細川家・黒田家の不仲

2013-06-16 07:13:48 | 歴史

(慶長五年)五月黒田御上り候故、岡村半右衛門・西郡大炊を御使として、先納返弁可有旨ニて米高拾壱万石余の目録を為持被遣候、長政の返事ニ、此目録の内ニ毛利壱岐守・垣見和泉守・熊谷内蔵允所領有之、不存掛先納迄を被仰越、其上筑前の先納を金吾中納言取被申候、かの方より返辨あらは此方よりも返し可申と也、忠興君又被仰候ハ、秀秋の事ハ貴方との御挨拶次第ニて我等之預ル処ニあらす、毛利・垣見・熊谷は薩摩陳の節如水引具して支配有之候上ハ、其元より償ひ給ふへき事也と有、長政之答に、仰尤ニ候、急度算用可遂候へ共、御存之通去年父子東西之軍役を勤、殊之外手前つまり候間追々に返弁可致候と申申(ママ)来候、忠興君御腹立被成、とかく事ニ託て責をのかれんとなるへし、其儘に差置かたしとて篠山与四郎を被召、中津之大阿武 船の名 を門司に可廻旨飛脚可差越、又長岡勘解由 門司ニ在城 方ニハ大阿だけを門司ニ廻す間、筑前より登ル船、財宝積たるハ不構、穀物積たる船ならば可押留旨申遣候へと被仰付、篠山其趣下知いたし候、折節津田小平次来り合候而此事を聞、与四郎待れ候へ、某埒可仕とて吉田より伏見ニ至り、山内対馬守ニ被語候ヘハ、一豊聞て、是ハ大事ニ可及候、何とそあつかひ申へし、片桐市正ハ細川・黒田の両家共ニ間能候、相談之上扱可申とて大坂ニ至り、且つ元と共ニ黒田ニ告て、六月初比大坂ニ於て六万石を金・銀・米ニ而相渡、楮膝(漆)にて三万石を相払、残る不足の弐万石ハ我々両人江給り候へとの扱にて事済候也
    其後慶長八年、家康公将軍宣下ニ付而諸大名御上洛之砌、黒田氏を山内氏御同道にて御玄関迄御出候、此方よりも山内氏御同道にて黒田氏の
    玄関迄御出候而、先納之出入一通りハ相済候得共、是よりして御中違ニ成候と也

       忠興君黒田家と御義絶ニ而御座候ニ、或時江戸ニて黒田氏の亭へ忠興君不図御入候間、広間ニ詰居候面々いふかしなから出むかへ候ヘ
       ハ、雪隠ニ案内いたし候へと被仰候、不得止事御案内仕候ヘハ、御上下をも御ぬき候而緩々と被遊、御口上をも不被仰置、直ニ御帰被成候、
       詰居候者共安からす存候へ共、すへき様も無之、黒田氏も御聞御腹立候へ共無詮、後ニハ人ニ対し、何にても越中方より仕かけ被申候ハゝひ
       けハ取ましと存候へ共、此返報ハ存つかず候、とて度々雑談有之候と也
       忠興君初ハ如水と御入魂也、既ニ山中落城之時ハ如水の馬ニて御かけ付被成候事も有之、長政も七人衆とて別而御入魂、木付一件の儀ハ
       不申及、又或時如水の亭にて御物語の折節生鯛を贈たる人有、如水即座に料理申付、越中殿ヘハ骨を煮て出し候へ、外ニ珍客も可有にと被
       申候由、忠興君御帰之上、人数を持者ハ如此勘弁肝要なりと被仰候、右之通無等閑御交りなりしか共、今度出入以後御代々御義絶の御家柄
       なり、然るに降徳院様御代元文元年七月御中直り有之、霊感院様御代ニ至り候而ハ殊ニ御使者御音物等も有之候、今にてハ御親しき御縁に
       被為成候也

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6・26水害から60年

2013-06-15 17:35:09 | 徒然

 今朝は雨音に気づいて目を覚ました。「梅雨入りしたこっあしたばってん」一向に降らず、大降ではないが何日ぶりだろうか。
真夏日がつづき、本格的爺に成りつつある身には暑さと湿度が本当にこたえる。今日は史談会の例会で、外出にはいささか困りものだと思っていたら出かけるころには小降りとなってしまった。

昨日の新聞に、熊本市の「新聞博物館」で「6・26水害から60年展」が催されていることが報じられている。
当時小学校六年生であった私は、この水害で同窓27名(定かならず・・)を失った。自らも濁流に翻弄されて死を覚悟させられたし、命を拾った昭和28年のおぞましい大水害の記憶がこの季節に成ると蘇ってくる。

それでもあの大水害の記録を目にしておきたいと思い、近々出かけて見ようと思っている。

 

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多忙極まりなく・・・・・

2013-06-14 12:45:56 | 徒然

 ここのところ仕事でちょっと多忙を極めている中、史談会の史料がまだできあがっておらず、焦ることしきり・・・・
今朝は五時起きで資料のタイピング、午前中に何とか完了してほっとしている。追込み型の悪いところで、何事もこんな感じ・・・・
いささか睡眠不足で睡魔と闘っている。読み下し文に頼らず明日の史談会では原文を読もうと思って、読みにチャレンジしているが、何度読んでも完読できない。情けない次第である・・・明日の史談会は大丈夫だろうかと、他人事に様に考えているが、今日中はこれに懸りっきりと相成る。

暑さもこたえて本格的爺に成りつつあることを実感するし、今年は夏バテしそうな予感がある。
 

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今日の毎日新聞・地方版

2013-06-13 23:20:34 | 新聞

出版:米良家、激動の400年 末孫・近藤氏と研究家・佐藤氏、一族の足跡たどり /熊本

毎日新聞 2013年06月13日 地方版

 ◇初代・熊本藩主に仕官~12代・シベリア抑留

 江戸時代から現代までの400年間の一族の歴史をたどった著書「肥後藩参百石 米良家」が出版された。著者は米良家の末孫で札幌在住の近藤健氏と、東京の歴史研究家、佐藤誠氏の2人。8年がかりで完成させた。

 米良家の系譜をさかのぼり、日本史上のさまざまな事件とのかかわりに触れる。米良家の初祖は、熊本藩初代藩主の細川忠利に仕官した。米良家の2代当主は、赤穂義士、堀部弥兵衛の介錯人を務めた。8代目は幕末の相模湾警備、2度の長州征討戦に従軍した。

 10代目は明治9年の神風連の乱に参加して自刃し、9代目は明治10年の西南戦争で熊本隊員として西郷軍に合流して戦死した。

 11代目は屯田兵に志願して北海道へ移住した。13代目は太平洋戦争のレイテ沖海戦にゼロ戦の操縦士として参加した。12代目はソ連軍によるシベリア抑留中に病死した。

 熊本を出自として変転を経て北海道へ移った一族の足跡を、豊富な史料とともに振り返っている。福岡市の出版社「花乱社」刊。346ページ、3800円。【大島透】

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綿考輯録に見る秀吉の九州平定(4・了)

2013-06-13 07:13:26 | 熊本史談会

日向大隅の内一揆所々に有之由聞へ候間、忠興君等の諸将五万余の兵にて、五月廿日二手に分れ押向ハる、先ツ野村兵部丞か居城山崎城に向ひ給ふに、降を乞て城を渡し、其外所々の一揆悉く攻平け、五六日の内日隅平均いたし候間、秀吉公其功労を賞せられ候、秀吉公ハ肥後八代城迄御還座有
    
    一書、此時秀吉公より忠興君へ被遣候御書
      先手より書状之通令披見候、明日は仮川深候共、河際迄可成御座、少々透を被計御覧被成、御川越候条可成其意候
      則朱印先手へ早々自其方遣、不寄夜中御返事可差越候也
            酉刻
              五月廿一日                 秀吉 朱印
                 羽柴与市郎殿へ

    右御書此砌なるにや、考に一書に、秀吉公鹿児島近き千代川辺ニ陳を寄られ、忠興君へ書を賜るとて右の御書有、五月七日嶋津氏降参なるに、
    同廿一日ニ千代川越さるへきとの事いふかし、強而考候ニ、日隅の方に一揆有と聞へ、廿日忠興君御出勢、秀吉公も押せらるへきとての書なるへ
    きか追考之上本文に直し可申候、一書、秀吉公廿一日山崎ニ御着陳と云々、南海治乱記云、五月廿一日 殿下太平寺を御立有て山崎城ニ御入
    陳、次の日祁塔院口の御陳回ありて山崎江御帰座、廿三日鶴田の城まて御出有て、大隅江兵衆を遣され、人質を相定、大隅日向平均して薩州新
    納武蔵守か居城大口へ寄せらる処ニ、先衆ニ鉄炮を打掛る、先衆より便を遣し、島津義久泰平寺に参候し本領を案堵す、何とて違変するやとて大
    軍押入ほとに、野も山も混らに軍勢充満し、殿下御陳大口の城二十町はかりに寄せらるゝ、武蔵守即肩衣袴を着し御陳所江参り申上るハ、嶋津事
    手前忘却仕り、降参申たる事我等に不申送して、御旗先に不礼仕候とて、男子を人質に差上而御礼申上、平均、五月廿七日肥州水俣は御帰座、
    於是阿蘇宮の神主か居所山中険難の地なる故ニ、百姓とも楯籠の聞へあり、成敗を加らるへしとて、浅野弾正・戸田民部少輔・福嶋左衛門大夫・
    羽柴与一郎・高山右近・中川藤兵衛・羽柴忠三郎・羽柴三郎左衛門・羽柴彦六・羽柴五郎右衛門・林長兵衛を被遣、山中の者共人質を出し御赦免
    を乞故ニ平均す、夫より熊本江御動座と云々
       菊池伝記ニ、四月三日肥後南関正法禅寺ニ御陳を移されしに、国中の諸城主各御迎に出て先駈之勢に加る 中略 薩州御退治の後日向に打入給
    ひ豊後路を経て、肥後小国にいたり、醍醐満願寺に御一宿 中略 、翌日小国を御立有て、筑後に至、肥後南関ニ御陳をすへられ、肥後を佐々成政
    ニ賜り、肥後国侍数十人ニ本領を宛行れ、成政か与力ニ定らると云々

熊本南関より筑後通り、筑前博多に数日御逗留、七月朔日箱崎御立、四日関の戸より御帰陳、忠興君も御帰陳被成候 
    私之(云ヵ)、秀吉公豊前より肥後通り所々御逗留、九州の諸将降参并御帰陳之節御止宿、肥後を佐々ニ被下等の日限、諸書一様ならす、いふか
    しきも多く候、且御家にかゝはらさる故略之

肥後国を佐々陸奥守成政に賜り、当国の地頭五拾壱人旗下に被仰付、熊本に在城有之候、然に隈府の城主隈部但馬守親永か領内、検地の事より色立候而、成政発向、隈府の城攻落し、同嫡子式部大輔親安か山鹿城をも被攻候処、国中所々に一揆起り熊本城を攻囲候間、家人等を以山鹿城を押へ、其身ハ熊本に後詰して寄手を追立、城内に入て敵を防かれ候、此事大坂に聞へ、秀吉公より援兵として忠興君・蜂須賀阿波守・加藤左馬助・毛利壱岐守等被差向候処、其内ニ一揆しつまり候間、忠興君・蜂須賀・加藤等は御下向なく、毛利壱岐守謀を以一揆の頭人隈部父子を召寄、小倉と柳川にて殺害せしめ、成政ハ平均の地を二度勃興せし罪によつて、翌年四月摂州尼崎にて切腹被仰付候、左候而肥後益城郡甲佐川を限、南を小西摂津守、北を加藤主計頭に被下候

                                            (了) 

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