寛永五年の正月廿日の奉行所日帳の記事に、乃美主水と小篠次太夫との人の「出入」(争いごと)についての記述がある。
乃美主水は、毛利家重臣・浦兵部允宗勝(武家家伝-浦氏)の男子である。
乃美主水・景嘉
(大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
銀子廿枚 鑓ハ不合、首ニ討取、生捕壱人、此外内之者首三討取 (綿考輯録・巻十九)
三斎様御付中津ニ相詰候衆 千五百石 米田助右衛門是政(二代)婿 (於豊前小倉御侍帳)
一方、小篠(おざさ)次太夫は、大江広元の後胤で、丹後以来の家であり当時は奉行職を勤めている。転び切支丹だったとも伝えられる。詳細不明。
事は、乃美主水の下人・小左衛門が小篠次太夫の許へ奉公替えをすることに端を発している。乃美は快く了解をしたらしい。
しかし小篠の方からはこのことに付、特別の挨拶がない。この出入について扱いを一任されたのは、坂崎道雲・志水伯耆・小谷又右衛門などである。
奉行からであろうか、坂崎道雲に尋ねたところ、三人の衆が小篠を同道して、乃美主水の許へ出かけてようとしたが、いろいろの理由で延引した。
しばらくして小篠は乃美宅へ出かけてはいるが、この件に対する「礼」としての発言はしていない。「無言」という表現が面白い。
小篠はこれをもって、事は済んだと理解している一方、乃美方では「礼」としての発言があってないと理解している。
双方に食い違いが生じているが、二月に入り事は意外な方向に展開する。
■寛永五年正月廿日・日帳
(大脱) (成定) (元五)
忠利乃美景嘉ト小 |一、乃美主水・小篠次夫と人ノ出入あつかい被申候衆、坂崎道雲・志水伯耆・小谷又右衛門、此三人
篠次大夫トノ人ノ | (成政) 清左衛門の養父
出入ヲ聞カシム | にて御座候由ニ付、落着之様子を、坂崎清左衛門を以、道雲ニたつね可申 御意ニ御座候間、則
| 清左衛門にたつね申候処ニ、道雲被申候ハ、あつかい調申候後、主水かたへ、あつかいノ衆次
| 大夫を同道仕候て、礼ニ参候筈ニ御座候処ニ、いろ/\と候て延引仕不参候、此儀ニ付而主水・
無言 | 次大夫無言にて御座候つれ共、あつかいノ後、久敷間御座候而、主水方へ次大夫礼とハ不申参
| 候へ共、主水ハ見廻と相心得、人出入済たる故ニ、次大夫礼ノ心得にて被参たるとハ、主水不存
| 様子ノ由、道雲被申候由、清左衛門被申也、
乃美小篠人ノ出入 |一、乃美主水・小篠次大夫人ノ出入之儀を、坂崎道雲あつかい人ノ内にて御座候ニ付而、其節之様子
ニツキ扱人坂崎道 | を道雲ニたつね可申旨 御意ニ付、道雲を御城へよひ候て、相たつね申候処ニ、道雲申様之
雲ノ口上 | 事、
| (志水元五)
乃美景嘉ニ家来 | 一、主水所へ道雲・伯耆・小谷又右衛門、此三人参候て、彼内ノものゝ儀、次大夫所ニ其まゝ置候
ヲ小篠次大夫家 | 様ニと主水へ申候へ共、合点不仕候つれ共、色々ニ理を申候て、ついニは主水を申ふせ、合
来トスルヲ認メ | 点ノ上ニ而、あつかい之衆申様ニ、近比満足仕候、此上ハ、則次大夫を同道仕候て、礼ニ可参
シム | 候と申候ヘハ、其時主水申様ニ、 礼ニも不及候、各三人御あつかいにて候からハ、次大夫不被
| 参候とても不苦候由、主水申候、其時あつかいの衆申様ニ、其分ニも可仕候、とかく次大夫可
次大夫礼ニ不参 | 候様ニと、次大夫ニ申候、然ニ中/\礼ニ参間敷候、此中主水不聞儀を申候間、礼ニ参間敷と
| 申候、其時あつかい候衆申様ニ、それハ不届儀ニ候、主水手前をいろ/\申かねへ候ニ、次大夫
| 申分一円不聞候通申候ヘハ、其時次大夫申様ニ、然は可参と申候つれ共、同道仕候て主水かた
小篠ニ礼ニ行ク | へ可参を、何かと打通、不参候、又あつかいノ衆同道不仕候共、いつれにて成共、主水ニ被相
ヲ命ズ | 候て一礼被申可然と、次大夫ニ申渡候、久敷ま御座候て、主水・次大夫は此儀ニ付、無言ニて
相互ニ無言 | 御座候つれ共、小倉ニ而も、主水かたへ次大夫参候、内ノもの出入相済申候礼と申候てハ不参
| 候、下心ニハ無言之上ニ参候ハ礼と次大夫存候て参候、又中津にても参たる由、次大夫申之
| 由、道雲被申候事、
| 次大夫礼之儀
挨拶ヲ三年待ツ | 一、主水申様ニ、彼出入之儀、〇三年相まち候へとも、埒明不申候間、言上可仕之由被申候間、尤
| ニ而ハ候へ共、先言上を被待候へ、礼ニ参候儀可相済候、江戸ニ次大夫有之事ニ候間、江戸へ
| 其内次大夫下り被申候ハヽ、同道可仕と、
| 申遣候て、次大夫状ヲ取候て成共可進之候、〇状ニ而主水へ申遣由、道雲被申候、右之段々
| を申上候ヘハ被 聞召候、道雲をハ戻し候へと、 御意にて御座候間、則 御意之段を申渡候
| て、道雲を御城ゟ戻し申候也、
二月九日の日帳によると、小篠次太夫は奉公替えで受け入れた下人に「暇=いとま」を出し、宿(次太夫家の長屋か)を出るように促している。
ところがこの下人・小左衛門が切腹してしまったのである。
かっての主人と新しい主人の間で、自分のことで「出入」があり、それが原因と思われる「雇止め」が行われたのである。
小左衛門の心中は計り知れないが、死を選んだ。
事は役所に届けられ、忠利にも伝えられ「御構なき旨仰出され候」とあるから、当事者たちには何のお構いもなかったということである。
小篠次太夫に、乃美主水に対し一言の「礼の言葉」があって居れば、小左衛門も死を選ばずに済んだのかもしれない。
下人たちは主人たちの間でもてあそばれ、不幸な死を迎えた。
■寛永五年二月九日・日帳
小篠ト乃美トノ人 |一、小谷忠二郎・熊谷九郎兵衛被申候ハ、小篠次太夫と乃美主水人之出入ニ付而、次太夫いとまを遣
ノ出入一件 | (小左衛門)
小左衛門暇ヲ出サ | 被申候もの、此中やとをもかへ候へと、申付候処ニ、日からあしき由申、今日、やとをかへ可申と
レ切腹 | 内々申候、然処ニ、今朝ほの/\あけニ切腹仕候、かの女房見付候て、こへをたて申ニ付、見付、
| (息)
| 忠二郎・九郎兵衛両人も参見申候、それ迄ハ少いき御座候へ共、そのまゝおち入申候、則式ア殿
| (友好)
ソノ後ノ処置 | へ参、此段申候へとも、御奉行衆へ可申通妃仰ニ付、如此之由被申候間、当番松井宇右衛門尉ニ
| 申、与之衆両人被仰付、かの切腹仕候者書置なとも可有之候間、左様之儀、其外妃相改候ハヽ、
| 其上を以、立 御耳可申候間、御与之衆被仰付候ヘと、申渡し候事、
乃美ト小篠人ノ出 |一、乃美主水・小篠次太夫人ノ出入在之小左衛門と申もの、今朝未明ニ切腹仕ニ付、其段書付を以申
入一件 小左衛 | 上候処、無御構旨被仰出候事、則書付ハ得 御諚相済との袋ニ入置候也、
門切腹構ナシ |
得御諚相済トノ袋 |
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