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=聖句=
「『・・・わたしは、この世にいる間は、世の光です』 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきでどろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた『シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい』 そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った」(9章5~7節)
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イエスはこの盲人をいやしますが、ここでの癒しでは変わったことをしています。
地面に唾をして泥をつくります。それを盲人の目に塗る。そして、「シロアムという池に行って洗いなさい」というのですね(7節)。
盲人は、その通りにします。すると彼の目は見えるようになった、とヨハネは記しています。
これについて、イエスはどうしてそういう癒し方をしたのか、という疑問を感じる人が後を絶ちません。こういう方法は、他で盲人を治すところではしていないのですから。
色々な解釈がなされています。なかなかに衒学的なものもあります。
~~ユダヤ教のタルムード(口伝されてきた律法を集大成したもの)には、してはならないことが色々記されている。その中に、安息日にしてはならないことが書いてある。その一つに、「目に泥を塗って癒してはならない」というのがあるそうです。
イエスはそれを知っていて、そういう習慣律に敢えて挑戦したんだ~~という解釈。
面白いですね。春平太も私見を書いてみましょう。
この盲人はイエスに「癒してくれ」と願い出ていませんよね、ヨハネの記述では。道ばたにいたのをイエスが見て立ち止まったように書かれています。鹿嶋はそこに着目します。
イエスへの信頼、期待を抱いて願い出ていないのにイエスの方から癒すというのは、珍しい状況です。他の場合では、病人の方にイエスへの熱烈な期待と信仰がまずあります。イエスはそれに応じて癒しています。
長血を患った女性がイエスの衣に触れて癒されたときなどは「あなたの信仰があなたを救ったのです」とまでいっています(ルカによる福音書、8章48節)。
ところが、この盲人の場合は、そのステップが踏まれていません。このままではこれは「信仰の故に癒される」という癒しの大原則に反するのではないでしょうか。
そこでイエスは、彼を癒す際に、そのステップを差し込んだのではないかと思います。
シロアムの池というのは、当時のエスサレムの街の、南のはずれのに低いところにあった池だそうです。イエスに泥を塗られたその場所からは、盲人が行くには結構距離があったのではないでしょうか。
そうであるなら、指定されたこの池への道のりを歩いて行くこともまた、イエスへの信頼がないと出来ないことでしょう。これのいわば「信仰のステップ」をイエスは挿入した。こう考えられないでしょうか。
この盲人は、そんなバカな・・・といって、池に行かないことも出来ます。他方、期待と信頼を十分にもって、すなわち信仰をもって、池に行くこともできます。
彼が、イエスの言葉を信頼していく気になるかどうか、これがポイントであったように思います。