~~ヨハネ伝は深いですね。
今日も読んでみましょう。
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=聖句=
「私(イエス)が父の名によってしているすべてのわざが、わたしのこと(創造主の子であること)をあかししています」(10章25節)
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22節以降に入りましょう。ここで
もイエスは、むずかしいことを言っていますねえ。
まず、ユダヤ人たちが
「(自分は門だの羊飼いだのとおっしゃいますが)、要するにあなたは救い主なのかそうでないのか。結論をはっきり言ってくれ」という(24節)。
~~イエスは答えます。
「そのことはもう言ったではないか。諸君が信じないんで結論が見えないだけなんだよ」と(25節)。
~~続いて
「私が父なる創主の権威でもって行っていること(奇跡、しるし)が、私のこと(その父の子が地上にきた救い主であるること)を証言しているのに」と言います。
イエスはここで「自分の行う奇跡は創造主の権威でもって行っているものなんだ」と言っている。こんなことどうして言えるんでしょうかねえ。
その理由は、この段階では結論だけを言うことしかできませんが、言っておくしかありません。それはこれをしている方が「イエスという名」をもっていることによります。イエスの名が、悪霊の仕業かそうでないかを識別するポイントなのです。
ここでは、その「名」に関することが隠れているのです。イエス自身がそれをしているから、彼自身がイエスという「名」をもってやっていますから、敢えてここではいわれません。
イエスはただ、「わたしが行っていることが、創り主の権威で行っていること」とだけ、言っています。
創り主の権威が「名」にあるということは、意味深いです。
それは創り主の権威で行うことは、イエスご自身によるものだけではないことをも示しています。
決め手は「名」ですからね。ある人が創主の名・イエスによって癒しをなした場合も、それは創主の権威、承認がその人にある、ということを示しています。悪霊によるものではないことになります。
こういう明確な識別手段が与えられていますから、福音において、癒し、しるしを怖がることはないのです。
とりわけ教職者は、今はしるしを現すことが出来なくとも、いつか自分を通して現れることを、望み続けるべきです。心配しなくてもいいです。癒しが出来ない牧者は、現代では圧倒的に多数派ですから。