~~こんにちわ。
前回の解読は、とてもとても大事なところです。
鹿嶋のブログは、言葉ばっかりで、理屈が多く、読みづらいでしょうが・・。
「罪許される条件が、実は、聖句を探求しているその姿勢にある」という解読が正しかったら、福音は素晴らしいものになりますよ。こういう解読も成り立つ、ということを知っているのは、貴重なことだと思います。
さて、本日の聖句にすすみましょう。

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=聖句=


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10章に入ります。ヨハネがここで記しているのは、福音の教えの中のベーシックな部分です。
イエスはまず「自分は(羊)囲いの門である」と言っています(7節)。有名な宣言です。ここで羊とは、イエスの言葉を受け入れた信仰者です。彼らは、囲いの中で創造主(と天使)によって保護されているのです。
イエスは、自分がその囲いの入り口、門であるという。それは、その門を通らなければ囲いに入れないように、自分を通してでなければ、創主に守られた囲いの中には入れないよ、といっているわけです(9節)。

ところが、この話を、イエスは自分を登場させない形で始めています。曰く「羊の囲いにはいるのに、門から入ってこないのは盗人であり、強盗だろ?」(1節)、「羊飼いは、門から入ってくるだろ?」(2節)といった調子です。
さらに「すると門番は、門を開くし、羊は彼の声を知っているので従う。それで羊飼いは羊の名を呼んで囲いから外に連れ出すんだ」ともいう(3節)。
「けれども他の人だったら、その声を知らないんで羊は逃げてしまうんだよ」とも(5節)。
ところが聴衆は、どうしてこんなことをイエスは言うんだろうな、という様子だった、とヨハネは記しています(6節)。ヨハネ彼自身はわかっていたのでしょう。
そうしておいて、イエスは群衆に言うのです。「その門とは私なんだよ」と(7節)。

後にイエスは、自分をその門から入る「羊飼い」だとも言っています。紛らわしいですね。「え?! 一体どっちなんだ?」と言いたいところです。
「その両方である」というのが正解でしょう。イエスは、門でもあり、羊飼いでもあるのです。
では門とはどういう意味か。それは、創主の国に行くには、私を通ってでなければ不可能なんだよ、ということであります。
どうしてか? 創主の国に入るには、「罪」というものを処理しなければなりません。罪ある状態では天国には入れないわけです。
その罪を「無いもの」とする力はイエス以外に持っていない、これがイエスの教えであり聖書の論理なのですね。だから、イエスを通ってでなければ、創主のもとには行かれないことになるのです。

日本には、「山の頂上にいたるにはいろんな登り口、いろんなルートがある」と言う、宗教家というか道徳家というか、そういう人がたあくさんいます。「登山口複数説」とでも称すべき理屈ですね。
「真理にいたる道もそうだよ。仏教もそうだし、イスラム教も、キリスト教もそのルートだ。お釈迦様も、マホメットも偉かった、イエスも孔子もよくやった・・・」などともっともらしい顔をして教えています。
こういうのが日本ではまだまだよく受けています。こういう教えをする教団が大繁盛している。教祖は大邸宅に住み、その本はベストセラーの上位にいつも顔を出しているといった状態。それは日本人の形而上学的純朴さ、幼稚さを如実に現しています。
もっともらしい顔、というのは、聖書もコーランもみんなわかっている、と言いたげな顔でもあります。ところが実は、わかっていないのです。その基底的なところがわかっていない。
聖書ではイエスを、たくさんある真理への登り口の一つなどとは全然教えていません。それは、今解読した聖句でもって明らかでしょう。
