鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.125『イエスが一方的に癒したのは「世の側」でない男』(9章)

2006年03月12日 | ヨハネ伝解読

~~ヨハネ伝に戻りますね。


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=聖句=
「パリサイ人たちは『どうして見えるようになったのか』と彼に尋ねた。彼は答えた『あの方が私の目に泥を塗り、私がそれを洗い、そして見えるようになりました』」(9章15節)
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 ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)で、イエスに眼を見えるようにされた男と、その両親とが尋問されたわけです。普通の人は、伝統に反しないように、尋問に応じようとするでしょうね。僧侶たちの感情を害さないように対応しようとする。

 盲目だった男の両親はそういう態度をとりました。ヨハネは、それを記録しています。

 ところが、癒された男本人はそうしていないのですね。あるがまま、思うままを正直に述べている。僧侶がいらだっても、かまわず、率直に語り続けます。

 彼はきわめて論理的に答えましたが、その結果、会堂を追い出されました。


                    


 盲目の男はそういう人間だったのですね。このことは、とても示唆的であるように春平太には感じられます。

 乞い願ってこないのに、イエスの方から癒してあげるというのは、聖書に記されているところでは、とても例外的です。イエスがそのようにしたのはそういう率直な男でした。

 春平太は考えます。もしこの男が「世」に迎合するタイプだったら、イエスは癒しただろうか、と。

 もしこの男が、見えるようにされたら、ちゃっかりと「儲かった!」と喜ぶ。それでいて、会堂で尋問されたらされたで、ちゃっかりと体制側向きの受け答えをしておく。そうやって「世的」な被害は免れる。この男が、そういうタイプだったら、イエスは乞われないのに癒しただろうか、ということですね。

 癒さなかったのではないでしょうか。


                    


 「天と世とは絶対的に対立する」というのがイエスの世界観です。
人間に対しても「天の側で生きるか、世の側で生きるか」でもって見分けていたのではないでしょうか。

 この盲目の男は、要領よく「世に生きる」人間ではない。「天の側で生きる」タイプだ。そういうイエスの人間識別鉄則とでも言うべきものが、ここに現れているのではないでしょうか。

 ヨハネ福音書は、イエスのそういう視点をよく理解した伝記ですしね。


                    

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Vol.15自己存在の認識を明確にする

2006年03月12日 | 永続確信のための聖書解読


~~ 「ヨハネ伝解読」ちょっとインターミッションをしましょう。


                     



 聖書は人間を仕合わせにしようとする本です。
 聖書のメッセージが詰まるところめざしているのは、「人間を仕合わせにすること」です。

 いま「ヨハネ伝解読」を再開していますけれど、この福音書もまた、詰まるところは人間仕合わせにしようとするメッセージです。ヨハネは難しい話を色々していますので、それを追っているうちについつい、究極目的を見失いがちですが、実はそれでは解読として不十分なんですよね。

 ヨハネは、イエスが創り主の子であることを、その伝記を書くことによって一生懸命説明しています。創り主の子は、万物を創造した父なる創造主のメッセージを受信しています。

創造主は万物を創造した創り主ですから、無限の空間、無限の時間がどういうものかも知っています。 だからイエスの教えに含まれる世界のイメージは、正確なもの、という思想になっているわけです。


                    



 イエスの教えに含まれる世界イメージとは、聖書が示している世界イメージです。(これに関する鹿嶋の解読を「聖書の空間理念」として鹿嶋は著書『聖書のことが面白いほどわかる本』などのなかで示しました)
 
 それが真理だと判断するかどうかは別としても、聖書に提供されている世界イメージはかなり明確なものです。人間個々人も、自分の頭で無限の空間、無限の時間にわたる世界についてイメージすることはできます。

 だが、やはり明確さにおいて聖書に示されているものにはかないません。のみならず、このイメージを、バイブル以上にはっきりと与える書物もないように思われます。


                    



 これを知ることによって、我々は自分の意識をしっかりさせることが出来ます。なぜなら、それは自分という存在が何であるかを明確にイメージできることにつながっているからです。明確なイメージを持つと、意識がはっきりしてきます。

自分が、この無限の時間空間の中でどういう位置にあるのか、という問題意識は、実は人間には生まれてこの方、意識の根底に横たわっています。
これを自己アイデンティティなどと言ったりもしますが、ともあれ人間は生まれてこの方、この自己アイデンティティーの意識がモヤーッとした状態できています。

このモヤーを、はっきりさせることは、人間の意識を四六時中はっきりさせる基盤なのです。そしてそれがはっきりすれば人間の頭は時と共によくなっていくのです。つまり頭を根底からよくするベースなんですね。

聖句を探求すると頭がよくなる、という仕組みは、そこにあります。
そして頭脳が明晰になるというのは、仕合わせにつながることでしょう。


                                        


また、これは老人認知症も防止してくれます。
実は認知症の根底原因も、自己アイデンティティイメージがモヤーとしたままでいることにあると思われるのです。そういう状態で人生を引きずってくると、老年になって、そのモヤーが意識の上部にも浸透し、認知症を産んでいくのですね。

ヨハネ伝を読むことも、たとえばこんな風にして仕合わせにつながっています。
 他にもつながる面は多々あるでしょうけどね。
 ではまたその解読に戻りましょう。


                     

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