~~ヨハネ伝に戻りますね。
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=聖句=
「パリサイ人たちは『どうして見えるようになったのか』と彼に尋ねた。彼は答えた『あの方が私の目に泥を塗り、私がそれを洗い、そして見えるようになりました』」(9章15節)
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ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)で、イエスに眼を見えるようにされた男と、その両親とが尋問されたわけです。普通の人は、伝統に反しないように、尋問に応じようとするでしょうね。僧侶たちの感情を害さないように対応しようとする。
盲目だった男の両親はそういう態度をとりました。ヨハネは、それを記録しています。
ところが、癒された男本人はそうしていないのですね。あるがまま、思うままを正直に述べている。僧侶がいらだっても、かまわず、率直に語り続けます。
彼はきわめて論理的に答えましたが、その結果、会堂を追い出されました。
盲目の男はそういう人間だったのですね。このことは、とても示唆的であるように春平太には感じられます。
乞い願ってこないのに、イエスの方から癒してあげるというのは、聖書に記されているところでは、とても例外的です。イエスがそのようにしたのはそういう率直な男でした。
春平太は考えます。もしこの男が「世」に迎合するタイプだったら、イエスは癒しただろうか、と。
もしこの男が、見えるようにされたら、ちゃっかりと「儲かった!」と喜ぶ。それでいて、会堂で尋問されたらされたで、ちゃっかりと体制側向きの受け答えをしておく。そうやって「世的」な被害は免れる。この男が、そういうタイプだったら、イエスは乞われないのに癒しただろうか、ということですね。
癒さなかったのではないでしょうか。
「天と世とは絶対的に対立する」というのがイエスの世界観です。
人間に対しても「天の側で生きるか、世の側で生きるか」でもって見分けていたのではないでしょうか。
この盲目の男は、要領よく「世に生きる」人間ではない。「天の側で生きる」タイプだ。そういうイエスの人間識別鉄則とでも言うべきものが、ここに現れているのではないでしょうか。
ヨハネ福音書は、イエスのそういう視点をよく理解した伝記ですしね。