鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.128『救いの条件は実は聖句探求の維持?』

2006年03月22日 | ヨハネ伝解読
~~「ヨハネ伝解読」にもどりましょう。

本日も前回と同じ聖句を考えます。
今日考えるのは、とても大事な、福音の神髄に関するところです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「イエスは彼ら(ユダヤ教の僧侶たち)に言われた
『もし諸君が盲目であったならば、罪はないだろう。
だが、諸君は、自分が見える、と言い張っている。だから諸君は有罪なのだ』」
(9章41節)
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  「自分が盲人である(イエスの教えが見えていない)という自覚があれば有罪ではない」という言葉は、
前回ともうすこし違った解釈もできそうです。

 前回は、「この時点で(イエスによって)有罪の裁きを受けるのではない」というふうにとりました。
これは、将来の最後の審判で有罪の裁きを受けることもありうることを含んでいます。

 もちろん、イエスを信頼して罪なしとされる可能性もありますが、ともかく、
“イエスがこの地上にいる時点で「有罪」と決定される以外のすべて”を可能性として含んでいる、
という解読を前回はしました。


                    

<自覚があれば罪許される?>

 これはもう少し積極的に解読することも出来そうなのです。
「自分はイエスの教えがよくわからないという自覚を持つものは」実際にこの時点で
「罪なき」という裁きを受けた、と解する道もありそうにみえるのです。

 その可能性もある。イエスは「罪を許す」権威ももっているのですからね。

 「マタイ伝」9章を開いてみましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・
 「・・・人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。
イエスは彼らの信頼(信仰)をみて『子よ、しっかりしなさい。
あなたの罪は許されたのだ』と言われた」(9章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・

 ~~とあり、その少し後に
 
 「『・・・しかし、人の子(イエスのこと)は地上で罪を許す権威を持っていることを、
諸君がわかるために』といい・・」(9章6節)

    ~~とあります。
 すると、イエスの話を聞いて「自分は子の教えをまだよくわかってないんだ」という自覚を持つものを、
イエスはその時点で許す(罪なしとする)ことも出来ることになるんですね。


                    

<信頼の神髄に通じている?>

~~~そんなの不公平じゃない?
という声も聞こえそうですね。ところが必ずしもそうはならないんだよね。

 そもそも、福音において罪が赦される条件とは何だったでしょうか。
一般的には「悔い改めること」ですよね。で、この「悔い改める」という言葉をよく考えてみましょう。

 通常、悔いたり、改めたりするには、言われたことが「わかって」いなければなりませんよね。
わからなければ、悔いようがないし、改めようもないんですから。

 だが、そうだとするとそれはそれなりに問題が生じるんです。
「わからない場合はもう、罪は赦されないのか、救いはないのか」という問題が・・・。

 それだと、知的に恵まれていない人、あるいは、幼い子供などはどうなりますか?
金輪際救われないことになるんですね。
だって彼らは、イエスの言っていることが知的には「理解」出来ないのですから・・。

ところが「ルカ伝」18章を開きましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・
「創主の国(天国)は、この(幼子の)ような者の国である。
・・・だれでも幼子のように創主の国を受け入れる者でなければ、
そこにはいることは決して出来ない」(ルカによる福音書、18章16~7節)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


<わからなくても感じてはいる>

~~イエスはここで、幼子にも罪赦される道はある、と明言しているのですね。
これはなんだ。どう理解したらいいんだ?
 
 イエスは許す権威を持っているんだから、何でも出来る、といったんではもうめちゃくちゃになりますよね。
なんか許す理由が成立しなければなりません。筋が通らなければいけません。解読になりません。

 で、こんなのはどうでしょうか・・・。

 「自分はまだ、教えがよく見えていない」という(素直な)自覚がある人の心理はどうなっているでしょうか。
「イエスの教えには真理がある」ということは「感じてはいる」のですね、間違いなく。

 それは、「知的には理解できなくても、霊的に感知できている」ということになるのではないかな。
するとその人はどうするか。とにかくイエスの言葉にさらに耳を傾けようとするでしょう。
イエスの行くところについて行こうとするでしょう。

 このヨハネ伝解読で前述しましたように、それがイエスのいう「弟子になる」ということでしたね。
弟子とは、まだ、理解しきれないけれどもその教えに真理があると確信して付き従い学ぶ者でしたよね。

 これはイエスの話、天の創主王国の話を無邪気に受け入れる幼子と、同じ状態ではないでしょうか。
幼子もまた霊的に真理を感知しているのではないでしょうか。

 そしてイエスは、その段階で罪を赦すのではないでしょうか。
教えることの意味が知的によく理解できなくても、そこまで行ってなくても赦す。

 しかもそれは、イエスが地上にいる間だけでなく、時代を超えて当てはまる論理ではないか。
幼子の話は、一般法則として語られているのですから。

                    


<実は幼子と五十歩百歩>

 考えてみれば、わたしたちがイエスの言葉を「理解した」と思っても、それはしれたものかもしれませんね。
いや、そうでしょう。だから、米国南部のスモールグループでのバイブルスタディも終わりがない。
検討しても、検討しても、議論は終わりません。「結論が出た、これでイエスの教えはわかった」
といって解散するのでなく、教会は存在し続けています。

イエスの教えをある程度理解したと思っている大人も、
創り主から見たら、この幼子が創主の国の話を受け入れた状態と大差ないかもしれませんね。
いや、むしろ、幼子と大差ないと自覚していることが、罪許される条件かも知れません。

 では、その自覚があるとどうなるか。イエスの言葉が記録されている聖句を調べ続けるでしょう。
逆に、調べ続けない人は、少なくてもそういう自覚がないことになるでしょう。

 すると、聖書の中のイエスの教えを調べ続ける、というのは、罪許される条件となります。
これを言い換えると聖句探求主義を維持していれば、それだけで罪許され、救いを受けられることになります。

                    

・・・そうだとすればイエスの説く福音って、ホントに深く素晴らしいものだと春平太は感嘆します。
読者の皆様は、いかがでしょうか?

                    


コメント (3)
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