鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.127『自分はわかっていない、という自覚があれば』(9章)

2006年03月19日 | ヨハネ伝解読
~~ヨハネ伝、続けましょうね。


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=聖句=
 「イエスは彼ら(ユダヤ教の僧侶たち)に言われた『もし諸君が盲目であったならば、罪はないだろう。だた、諸君は、自分が見える、と言い張っている。だから諸君は有罪なのだ』」(9章41節)
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 前回、イエスの、自分は「見えるものを見えなくする」という裁きをする、という聖句を考えました(39節)。

 なにが見える、見えないのか、というとそれは「創り主の真理」でしょうね。「どうしたら永遠の救いを受けられるかに関する真理」といってもいいかもしれません。

 イエスの教える真理は「人はみな罪人であり、イエスに頼らないと救われない」ということでしょう。

 一方パリサイ派の僧侶たちは、それとは違った真理観を持っています。その路線で「自分たちは真理がみえている」と思うわけです。

 そこで彼らはこういいます。

 「イエスさん、まさかあなたは、我々をその見えない者だというんじゃないでしょうね」(40節)

 ~~と。イエスはこう応えています。これが本日の聖句です。

「もし諸君が盲人であったならば、罪はなかっただろう。ところが諸君はいま、自分は見えると言い張っている。だからあなた方は依然として罪ある存在なのだ」(41節)。

 これはどういう意味でしょうか?


                    



 前半部分の「あなたがたが盲人であったなら、罪はないだろう」というのはわかり辛いですね。聖書の鉄則では、人間は皆罪人です。イエスの言うことに対して盲目であろうが、生まれながらにアダムの罪を受け継いだ罪人ですよね。

 にもかかわらず「盲目なら、罪はないだろうに」というんですから、この場合の罪は、何か別の意味でなければなりませんね。


                     


 難しいからいったん後半部分に飛びましょう。

 後半ではイエスは「ところが諸君は、自分が見えていると言い張っている。だから有罪なんだ」(41節)

  ~~といっています。

 「諸君は見えていると言い張っている」というイエスの言葉は何を意味しているでしょうね。「(パリサイ人たちは)実際には真理が見えていない、すなわち、盲目である」にもかかわらず「見えていると確信している」ということでしょう。

 するとどうなるか。もう「イエスの言っていることを検討してみよう」という姿勢は生じませんね。

 そのことの故に、有罪だとイエスはいうのです。

 イエスの見解では、いまイエスという救い主自身が、世にきて語っていることにになります。で、ユダヤ教の僧侶やユダヤ人たちにはその教えについて、考えようという姿勢すらない。

 イエスからしたらこれではもうダメなんですね。これについては「はい、それまでよ」なんですね。イエスはもう有罪の裁きをこの時点で下してしまう。後戻りできないようにしてしまう。

 こういう意味だと鹿嶋は思います。


                    


 「盲目なら罪はない」という前半の言葉も、そのつながりで解すると、聖書の鉄則と矛盾しなくなります。当人に「自分は目が見えていない(イエスの言葉がわかっていない)んだ」という自覚があれば、検討する気持がでてきます。

 その場合は、「自分はいま有罪の裁きを下しはしない」というのですね。その後どうなるかはわかりませんよ。だけど、少なくともいまは、後戻りできないようにはしない、こういう風に鹿嶋にはみえます。


                    
コメント
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