鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.126 『イエスはこの世で裁いてしまうこともある』(9章)

2006年03月17日 | ヨハネ伝解読
~~こんにちわ、鹿嶋春平太です。
 聖書はとても知恵に充ちた本ですが、「ヨハネ伝」はそのなかでも「聖書の中の聖書」と言っていい書物です。

 最近読み始めてくださった方、面白いですか?
面白くなかったら、それは「ヨハネ伝」のせいではなく、解読を書いている鹿嶋のせいです。
もっとこうしたらいい、こう書いたらいい、とお思いのところありましたら、是非コメントしてください。

~~さて、9章も終わりに近づきました。ヨハネはここで、「裁き」と「悔い改め」に関するイエスの教えを明記しています。今回は、前者の「裁き」について解読してみましょう。


                    



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=聖句=
「私がこの世に来たのは、裁くためです。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためです」(39節)。
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 目を癒された男は、イエスに会い、この方こそ創主の子である、と信じました。その彼にイエスは上記の聖句にみるセリフをいっています。


                    


 ヨハネ伝を通読した人は、この聖句について「おや?」と思うのではないでしょうか。この先の12章でヨハネは、イエスの「私がこの世に来たのは、裁くためでなく、この世を救うためです」という言葉を記録しています(12章47節)。

これと矛盾しませんか? ここではイエスは、「自分が世に来たのは裁くためではない」と言っていますから。


                    

 

 鹿嶋の解読はこうです。

 ~~12章での「イエスがこの世にきたのは、裁くためではなく、この世(の人々)を救うため」というのは、一般的な大原則だと考えます。イエスは、人間を救おうとして様々に語り奇跡を行う、というのが新約聖書に共通したメインストーリーです。

 そして、この9章で言っているのは、例外的で特殊な状況だと思います。
 ここでの裁きをイエスは、「見えない者(自分はイエスの説いている真理がわかっていないと自覚する者)が見えるようになり、見える者(自分は真理が見えていると思っている者)が見えなくなるような裁きだ」と言っています。

 具体的にそれはどういうことでしょうか?

 イエスは人間を救おうとしてこの世で働きます。けれども、ある点までやって、ダメな人間に関しては、そこでポンと突き放しています。突き放されたらもうオシマイ。もうその人は真理がみえなくなってしまいます。

 それが「(イエスの説く真理を)見えなくしてしまう」ということであります。イエスがポンと突き放したら、もうその人には、イエスの教えの意味が見えるようになるチャンスは無くなる、のです。後戻りできなくなる。これを指していると思われます。


                    



 こういう例があります。

 後に、イエスは、有名な「最後の晩餐」というのをいたします。十字架刑にかかる直前に12人の弟子たちと共にする夕食であります。後にイエスを裏切ることになるイスカリオテのユダは、この会食を中座して出て行きます。彼はしばらくして、イエスをとらえようとする人々を、イエスのいるところに案内してきます。有名な話ですね。

 このユダが中座するに際してのイエスの言動に注目してみましょう。彼は、まず、

 「この中の一人が私を裏切ろうとしている」(13章21節)

  ~~と言います。で愛弟子ヨハネは、それが誰ですかと、イエスにたずねます(13章25節)。

 対してイエスは、

 「私がパンをタレに浸して与える者だ」(13章26節)

  といいます。(そしてユダにタレに浸したパンを与えます)
  そして彼に言います。

 「あなたがしようとしていることを、今すぐするがいい!」(27節)

 ~~と。これが突き放しです。パンを与えたという行為でその突き放しがなされました。

 この時点から、ユダはもう、悔い改めてイエスに従うということは、完全に出来なくなっているのです。もう「あともどりできない」、「あともどり出来なくされた」とことになります。


                    


 ここでの「見える者を見えなくする」というのもこれでしょう。「俺は真理が見えている」と自認する人でも「イエスの(天の)言葉を悟って悔い改める可能性が完全にない」わけではありません。「見えなくする」というのは、その可能性をゼロにしてしまう、ということであります。

 どうしてそんなことができるでしょうか。聖書の論理には、「創主から出た言葉には、現実は従う」という鉄則があるからでしょう。イエスから「あなたがやろうとしていることをしなさい」という言葉が出たら、現実(ユダの行動)は、もうそれに従ってやるしかなくなるのです。

 体も心も、もうそうなっていってしまう。だからもう悔い改めのチャンスはなくなる。それが聖書の論理であります。

                    

<それが「裁き」?>

 ではどうしてそれが「裁き」なんでしょうかね。

  そもそも「裁き」ってなんでしょうか? 有罪、無罪の結論を下してしまうことですよね。
 「もう証拠は不十分とは言えない。故に、ここに結論す」~~これをするのが裁きです。

 有罪の裁きとなれば、後はもう刑の執行があるのみです。
 無罪であれば放免です。直ちに自由の身として解放されます。

 聖書の世界では、自由の身となる、というのは、天国にすくい上げられる、ということですよね。刑の執行を受けるというのは、火の湖に投げ込まれることです。

 この裁きが有名な「最後の審判」ですよね。
これは「七年間の大艱難」も「千年王国」も過ぎた後です。
いま現在からしたら、まだまだず~と先のことです。

 一般的にはそうです。
 だが、特殊な例外もあるんですね。
 イエスがこの世にきて、目の前で自ら直接教えをし、盲目の人がみえるようになるような“しるし”を見せます。

 でもそれでも教えを真理として信頼できない人がいるのです。
そして、イエスはこれをその時点で「突き放して」しまうのですね。

 こうなったら、もう後戻りできない。というのは、もう最後の審判で有罪の裁きになることは決まったということです。だからいまこの時点でそういう裁きを下されたのと同じことになるんですね。

 聖書にはこういう例外も書かれているのであります。


                    


 他にもある?
 あります。
 
 聖書では、イエスの名を信頼してきた者は最後の審判で「裁きを免れる」としています。それはつまり、信頼した者は裁判の時以前に「天国行き」という裁きがなされている、ということですよね。このように、最後の審判のず~と前に、裁きが済んでいるケースもあるわけです。

 そして、どうしたらそういういい裁きをいましてもらえるのか?・・というのは聖書の主題そのものですよね。


                    


聖書では、人はみな、罪人としてこの世に存在していることになっています。イエスはその罪人を救うためにこの世に来た。そのために働く。冒頭の聖句の「見えない人たちが見えるようになる」ために、ということはこれでしょう。

 だからイエスがこの世にきた以上、人はみな、罪を赦される可能性を持つことになります。赦されるのは、悔い改めによってであります。これは基本原理です。

 はじめはみな、悔い改めて赦される可能性の中にいます。みな機会均等の平等の中にあります。そして、悔い改めて救いを受けることになる人も出ます。残りの者にも、機会はのこされています。

   
                    



 基本原理はそうだけれども、全員が最後の最後までそうである、ということではないよ。イエスご自身が世にきて、直接教えをし、しるしを見せても、反抗して信頼しない者は別だよ。これには「見える者が見えなくなるような裁き」をすることもあるよ、というのが本日の聖句の解読なんですね。

 イエスは、そんなときには「ハイ! それまでよ」と突き放すのです。
・・・本当なら、厳しいですね。怖いですね。イエスの時代に生まれなくてよかったですね。

 ~~ヨハネは、そういう「裁き」をも、自らの福音書の中に、書きとどめているんですね。


                    


コメント
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