~~もう一つ「ヨハネ伝解読」のインターミッションです。
以前にも申しましたが、聖書は自ら、その内容が人間を仕合わせにしようとして送られたメッセージであることを自認しています。

いまの我々につながるとされる最初の人間は、アダムとイブとされていますよね。
創り主が彼らをおいた場所は、エデンという素晴らしい楽園でした。
彼らは、そこで苦労しないで生きられるように作られました。
創り主は、人間を苦労するようには作っていないんですね。
苦労というのは、人間がすべきことではないのです。
よく、人間には苦労が必要、と言いますよね。
「苦労は買ってでもしろ」ともいわれます。
でも、これは聖書的ではないんですね。
苦労なんて、買っちゃいけません。
楽しみを買うんです。
努力はしますが、それを苦しんでやるのは聖書的ではありません。
楽しんでやる、これが聖書的です。

でも、現実に苦労している人間、苦しんでいる人間が多いではないか。
あまりの苦しみで自殺する人もいるではないか。
~~こういう疑問には、「それは悪魔の仕業」と応えるのが聖書です。
といっても、実際に、アダムとイブはその悪魔の誘惑に欺されて、エデンの楽園を去らねばならなくなった。
だから、以後の子孫は苦労の中で生きることになっているではないか。
~~そのとおりですね。それは聖書的ですよね。
でも、創り主は、こういう人間に対して、再びメッセージを送ります。
それを記したものが聖書だと、聖書は自認しています。
だったら、そのメッセージは人間を仕合わせにするためのものにしかなりえませんよね。
「ヨハネ伝」もそうなります。
ですから、我々はこれを、詰まるところ、我々人間を仕合わせにしようとして送られたメッセージだと確信していいわけです。そういう確信の上に立って読むと読まないとで、大きな差が産まれますよ。
