~~ヨハネ伝解読、すすみますね。
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=聖句=
「父(創り主)はわたし(イエス)がすすんで命を捨てるから私を愛してくださるのです。命を捨てるのは再び得るためだけれど。誰かが私のいのちを取り去るのではありません。自分からそれを捨てるのです。私にはそれを捨てる権利があり、またそれを取り戻す権利があります。これ(命を捨てて、後に取り戻すこと)は父が私に命じられたことなのです」(10章17~8節)
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「真理(創主)への登り口は、実は、私だけなのだよ」とイエスは教えました。どういう理由で彼はそういうのでしょうね。
それはイエスだけが「いのち」を与えられるから、ということになります。「いのちエネルギー」を十全に与えて「罪無き」状態に出来るのは、自分だけだからだ、という論理です。
「罪ある状態」とは、その人の霊にいのちエネルギーが十全に充ちていない状態をいいますからね。人は生まれながらにして、そういう状態にある、というのがイエスの教えの背景にあります。
そこにいのちを注入して、完全充電に再生するのは、自分(イエス)しかいないのだ。そして、私はそれを、殺されることによって実現するんだよ、というわけです(15節)。

この話が、近い将来イエスが体験する十字架刑死につながっているなどとは、人々は想像もつきません。その状態で、イエスは、「しかし私が死ぬのは、自分からそうするのだ。それは、再びいのちを得る(復活する)ためなんだ」と一気に論を重ねているんですね(17~8節)。
これじゃあ、聞いてる方はたまりませんよね。一生懸命わかろうとして耳を傾けていてもわからない・・・。
「ウワァーッ、もう俺の頭がぐしゃぐしゃになってきたぁ~、彼は何いってるんだぁ~っ」
こういう場合、多くの人は、語っている相手(イエス)の頭がぐしゃぐしゃだと考えます。すると自分のイメージ(セルフーイメージ)を(正常だと)守ることができますからね。
で、その多くの人は言いました~~
「彼は悪霊にとりつかれてる、気が狂ってるんだ」
~~と。そして他の人たちに、
「君たちはどうしてこんな話を聞いてンの? いい加減に目を覚ませよ」(20節)。
~~普通はそうなるでしょうねえ。この時点で、なおかつイエスについて行った人たちを、春平太は不思議にさえ思います。

現代の我々には、聖書というものがあります。そこには多数の書物が編集して納められています。その聖書でもって、この状況を全体的にふり返って理解することが出来ます。当時の人々に比べると、自分は楽だなぁと実感します。
当時はそうではないのです。それでなおかつついて行った人々はホントに偉いもんだ、すごい頭の良さだ。いや、霊感か。とにかく感心します。

<しるしは効く>
とはいえ、人々にそうさせる強力な要因もまたありました。それは、しるし(奇跡)でしょう。イエスによるしるしを見たことからくる確信が、彼らをイエスの話に踏みとどまらせました。彼らは言います。
「いや、正直なことろ私たちにもこの話はもう全然理解は出来ない。出来ないけれども、それでもなお、この方は悪霊につかれているのではない。それははっきり言えるよ。だって、悪霊が盲人の目を見えるようにすることはあり得ないんだから」(21節)。
春平太が“しるし”を重視するのに対し、警告を下さった方もいました。「悪霊もしるしをする、と聖書に書いてあるではないか。危ないことだ」と。
そのとおりです。にもかかわらず、しるしを怖がってシュリンクしていたらいけません。霊を見分ける基準を、聖句の中に探すのです。しるしは大切な福音の要素なのですから。

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=聖句=


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「真理(創主)への登り口は、実は、私だけなのだよ」とイエスは教えました。どういう理由で彼はそういうのでしょうね。
それはイエスだけが「いのち」を与えられるから、ということになります。「いのちエネルギー」を十全に与えて「罪無き」状態に出来るのは、自分だけだからだ、という論理です。
「罪ある状態」とは、その人の霊にいのちエネルギーが十全に充ちていない状態をいいますからね。人は生まれながらにして、そういう状態にある、というのがイエスの教えの背景にあります。
そこにいのちを注入して、完全充電に再生するのは、自分(イエス)しかいないのだ。そして、私はそれを、殺されることによって実現するんだよ、というわけです(15節)。

この話が、近い将来イエスが体験する十字架刑死につながっているなどとは、人々は想像もつきません。その状態で、イエスは、「しかし私が死ぬのは、自分からそうするのだ。それは、再びいのちを得る(復活する)ためなんだ」と一気に論を重ねているんですね(17~8節)。
これじゃあ、聞いてる方はたまりませんよね。一生懸命わかろうとして耳を傾けていてもわからない・・・。
「ウワァーッ、もう俺の頭がぐしゃぐしゃになってきたぁ~、彼は何いってるんだぁ~っ」
こういう場合、多くの人は、語っている相手(イエス)の頭がぐしゃぐしゃだと考えます。すると自分のイメージ(セルフーイメージ)を(正常だと)守ることができますからね。
で、その多くの人は言いました~~
「彼は悪霊にとりつかれてる、気が狂ってるんだ」
~~と。そして他の人たちに、
「君たちはどうしてこんな話を聞いてンの? いい加減に目を覚ませよ」(20節)。
~~普通はそうなるでしょうねえ。この時点で、なおかつイエスについて行った人たちを、春平太は不思議にさえ思います。

現代の我々には、聖書というものがあります。そこには多数の書物が編集して納められています。その聖書でもって、この状況を全体的にふり返って理解することが出来ます。当時の人々に比べると、自分は楽だなぁと実感します。
当時はそうではないのです。それでなおかつついて行った人々はホントに偉いもんだ、すごい頭の良さだ。いや、霊感か。とにかく感心します。

<しるしは効く>
とはいえ、人々にそうさせる強力な要因もまたありました。それは、しるし(奇跡)でしょう。イエスによるしるしを見たことからくる確信が、彼らをイエスの話に踏みとどまらせました。彼らは言います。
「いや、正直なことろ私たちにもこの話はもう全然理解は出来ない。出来ないけれども、それでもなお、この方は悪霊につかれているのではない。それははっきり言えるよ。だって、悪霊が盲人の目を見えるようにすることはあり得ないんだから」(21節)。
春平太が“しるし”を重視するのに対し、警告を下さった方もいました。「悪霊もしるしをする、と聖書に書いてあるではないか。危ないことだ」と。
そのとおりです。にもかかわらず、しるしを怖がってシュリンクしていたらいけません。霊を見分ける基準を、聖句の中に探すのです。しるしは大切な福音の要素なのですから。
