いま我々日本人も信教自由が認められた国家に住んでいます。
信教自由は思想・言論・出版の自由に直結していますから、その自由も享受しているわけです。
ただし我々の場合はこの制度を歴史的偶然によって只で手に入れています。
第二次大戦での敗戦によって、日本は昭和26年までアメリカ占領軍政府の統治下におかれました。
GHQ総司令長官マッカーサーは戦前の大日本帝国憲法を廃し、新たな日本国憲法案の作成を
部下に命じました。
担当者たちは米国憲法に書き込まれている信教自由、言論思想自由の条項を
ほとんど新憲法案に写し取り、占領下の日本政府はそれをほとんどそのまま押し戴きました。
われわれはこれらの条項が創始者のすさまじい忍耐と流血の犠牲によって
この世に出現したものであることなど全然知りません。
ましてやそのために血を流して戦ったことなどなく、ただ占領軍に従順にしているだけで
ちゃっかり手に入れることが出来た。
世界では今も信教自由が存在しない国の方が圧倒的に多いなかで、
それをあたかも空気のように、当たり前であるかのごとくエンジョイしています。
これはもう仕方ないことでもあります。
テレビのある時代に産まれた子供にはテレビがあることが当たり前なのですから。
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だがことをそれで終わらせないで、そこから救い出してくれるものがある。
それが「知識」です。
読者はもうおわかりでしょうが、この制度を現実社会の中で十全に機能させるには、
創始者たちが抱き続けた精神を理解することが必須です。
そしてそれには聖句主義活動史を知り、その精神的資質の幾ばくかを最低限身につけることが
必要なのです。
そんなことなどつゆ知らず果実だけを楽しんできた。
それが現代日本の風景ではありますが。
そしてその無識が福島原発事故につながったのですけれど・・・。
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~以上で「第三部 いざ、幸せ社会」は終わりです。
これから「第四部 歴史の恵み」に入ります。その部でもって本書は終わります。