鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.131「17章 米国での聖句主義「的」文化」(5)~HBSは聖句吟味方式の丸ごとコピー~

2012年04月07日 | 「幸せ社会の編成原理」

  
    
             
       
今度は教育分野での聖句主義化の事例を見ましょう。

世界の若きビジネスマンがそこでMBA(経営修士号)をとることを夢見る経営大学院の
ナンバーワンは米国マサチュセッツ州にあるハーバードビジネススクール(HBS)です。
この学校は二十世紀初頭に新しい経営教育手法を編み出しました。

ケースメソッドと称するその手法は、まずケースライターと呼ばれる教員らが、
企業に出向いて経営判断を要した事件を聞き出します。
そしてそれを事例として記述した小冊子を造ります。
これがケースブック、略してケースと呼ばれています。何冊も何冊もつくります。

このケースを用いた学習をこの大学院では三段階に構成しています。
まず、個々人がケースを読んで自己の見解を作る段階。これが個人研究です。
次に数人の小グループに分かれて行う討議。これがグループ研究です。
そして最後の第三段階は、大きな教室に全員が集まり討議するクラスディスカッションです。

担当教授はこのとき登場します。そして学生の討議をリードします。
その際、彼はディスカッションの状況に応じて随時参考知識を提供します。
そして時間が来ると結論めいたことは言わずに教室を去る。以上です。

これを数多くのケースについて繰り返して学生は卒業していきます。

これで効果は出るか。出るから世界から学生が集まり続けるのでしょう。
学生はケースに記述されている経営問題の唯一の正解を学ぶのではありません。
経営問題への解決法はいくつも出るからです。

だがその経営事例を自由に討議することを通して、各人は自分なりの悟りを
積み重ねていくことができます。
多種多様な事例に関してそういう悟りが集積すると、それが彼らの知恵になる。
そしてその知恵は、経営の一般理論を学んで得られるよりもはるかに実践力のある
知恵になるのです。

その効果が評価されて、いまや米国の多くの経営大学院がこの方式を取り入れるように
なっています。日本にもこの出店のような活動をしている大学院があります。
     
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だが本書の読者はこれを読んで、どこかで聞いたような話だと思われるでしょう。
そうです。これは聖句主義教会の聖句吟味活動のほとんどそのままなのです。

その多くは前述してきましたが、改めてまとめましょう。
聖句主義教会が昔から続けてきている聖句吟味活動も三段階方式になっています。

教会員はまず自宅で次回にグループで討議する聖書箇所の個人研究します。
次いで、日曜日の礼拝の前に教会の小部屋に集まって1時間半ほどの
スモールグループ討議を行います。結論は出しません。

それが終わると全員が会堂に集まって礼拝をします。
礼拝では教会員は討議はしませんが、牧師は自己の主張の根拠としている聖句箇所を
ひとつひとつ示しながら、メッセージ(説教)をします。
散会後、教会員は牧師の説教を自由に論評しています。

これでおわかりのように、天下のハーバードビジネススクールの教育手法(ケースメソッド)は
二千年にわたって行われてきた聖句主義活動様式のほとんど丸ごとコピーなのです。
ならば少なからぬ成果が出るのは当然でしょう。

そしてこれを空から見ると、教育界に聖句主義化が進展しているという風景になります。
聖句主義活動の中心である聖句吟味の手法が波及している一例となるのです。


      
  

     

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Vol.130「17章 米国での聖句主義「的」文化」(4)~上下の差なくファーストネームで呼び合う~

2012年04月07日 | 「幸せ社会の編成原理」

  
         
       

”聖句主義化”の個別事例に入ります。
英国にもそれはありましてパブなどはその一つですが、米国でまずあげるべきはなんと言っても
「ファーストネームで呼び合う風習」でしょう。

この国では社会的な地位にかかわらず互いにファーストネームで呼び合う風習があります。
米国に住む日本人は当初これに衝撃や感銘を受けることが多いようです。

それでも通常はしばらくすると慣れてしまうのですが、考えてみるとこれは驚くべき事象です。
繰り返し述べますが国家社会はどこでも管理階層制を大枠として出来ています。
そして社会は自己のシステムを際限なく安定化させようという本能をもっていますから、
人を社会階層的な権威付きで呼ばせようとする暗黙の力は大きいのです。

なのにそういう要素を一切含めない名で呼び合うのは並大抵の力では出来ないことです。
その証拠に欧州諸国にも日本にもその習慣は形成されえません。
日本では帰国後まねる人もいますが、すぐにできなくなってしまっています。

アメリカという社会だけに、社会集団がもつ本能を押し返す事態が実現しているのです。

     
<万人祭司>
      
この風習は「万人祭司の原理」という聖句主義活動の鉄則からきています。
祭司とは、信徒の献金から給料を得て職業に専念できているプロの聖職者(教職者)です。
万人祭司とは「教職者も一般信徒もみな祭司である」といっている。

そしてそのねらいは両者の間に権威の上下をつけないことにあります。

これは「個人の聖句解釈の自由を保障する」のに貴重な役割を果たしています。
スモールグループでの聖書吟味において教職者に権威の上位を認めたらどうなるか。
彼の聖句解釈は一般信徒の聖句解釈より無条件に優れたものという雰囲気も生まれるでしょう。
そうなったら「個人の聖句解釈自由」は実質的に貫徹しなくなっていきます。

これを徹底して避けようとすれば、メンバーを社会的地位や敬称つきで呼ぶのをやめよう
というアイデアも自然に出てきます。
聖句解読の自由を徹底して守ろうという強い意志が、ファーストネームで呼び合う習慣を
生んでいるのです。

聖句吟味会でのこういう呼び方はバイブリシストの日常生活にも広がります。
彼らの決然として明快な姿勢は非バイブリシストたちにもインパクトを与えます。
そして彼らもまねるようになり、ついにアメリカの一般的風潮になったのです。
     
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この件に関しては筆者には忘れられない経験もあります。
経済学のシカゴ学派にジョージ・スティグラーという学者がいました。

彼はその価格論でノーベル賞を得ていました。
その大先生に大学院の学生が「ジョージ、あなたの価格理論はね・・・」とやっていた。
大先生もまた「それはあなたの考え違いだよ、トム・・」と答えていた。これには感銘を受けました。
       
もうひとつあります。同じ学派のノーベル経済学賞学者でミルトン・フリードマンがいました。
筆者はその息子ディビッド(彼も若手経済学者だった)と親しくなっていまして、
その区別上もあってミルトンと呼んでいました。

ある時日本人同士の会話で筆者がミルトンと呼んだのに日本の経済学者が目をむきました。
その方は筆者をこの学派との交わりに導き入れてくださった恩人でした。
筆者は後で「日本人同士ではフリードマン先生とよぶように」と注意されました。

筆者自身の呼び名の経験も記しておきましょう。
聖句主義者はファーストネームの代わりに他人に短いニックネームを与えることも簡単にやります。
筆者が南部のバプテスト聖句主義教会に通い始めたら、またたくまに「オーケー」という名を
賜ってしまいました。

日本人の名前は米国人には発音しがたく、記憶もしにくいらしいです。
そこで頼みもしないのに、勝手に命名してきた。
筆者の場合、何かというと「オーケー!」と相づちを打つことが多かったようです。
そうしたらすぐに「おまえはオーケーだからね」となりその名が一年後にお別れするまで続きました。

こうした風習が庶民レベルにまで浸透していることは、
米国における聖句主義化の進展の広範囲さをも示しています。



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Vol.129「17章 米国での聖句主義「的」文化」(3)~教理主義教会の”聖句主義化”~

2012年04月07日 | 「幸せ社会の編成原理」

  
          
       

教会員総数では教理主義教会のほうが優勢という中で、成長率は聖句主義教会が常時的に高い
~これが米国キリスト教界の状況です。
これを見て、他の教理主義教派の教会もスモールグループ方式などの聖句主義方式を
取り入れるようになっています。
これすなわち聖句主義化の流れです。

こうした動きは全国的にみられますが、南部では特にそれが盛んです。
南部にも教理主義教会はたくさんあります。それらが聖句主義方式を取り入れていくのです。
長老派教会やメソディスト教会がスモールグループの聖書研究会を信徒に提供する
というがごとくです。

理由を聞くと、そうしないと会員が聖句主義教会に移っていってしまうということでした。
この政策は結構有効なようで、筆者がアラバマ州(バイブルベルト地帯のなかの一州)に
滞在していたとき、
「聖公会の司教がスモールグループバイブルスタディを開始したら教会員数が急増した」
~というニュースも口コミで大々的に流れていました。
      
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=南部バプテスト教会での「小グループリーダー会議」=

(この教会では日曜日の午前に聖日礼拝をし、夕方にまた夕拝をしていた。
教会員は礼拝後家で昼食をとり午睡をする。そして夕拝をして終了後、
各グループでレストランなどに行って交わりの時をもつ。
日曜日は終日教会デーなのである。

また毎週の夕拝前に1時間ほど、スモールグループのリーダーが会議をもっていた。
彼らはそこで、その週の各グループ聖書研究で出た問題点を報告しあい、
解決法を話し合う。その後次週の重点課題を申し合わせる。
この教会ではリーダーには経験豊かな老年者があてられていた。
写真では見にくいが正面の若い男性は副牧師で、会の司会を務めていた)

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教理主義教会の聖句主義化の現象をさして、南部のバプテスト教会の人々のあいだでは
バプテスト化(Baptistization)という造語まで出来ています。
ただしこれはバプテスト教会員の間だけで使われる隠語です。                 

しかしここでバプテスト化といっているのは正確には聖句主義化です。
英語で言うならばバイブリシズム化(Biblicismization)とでもなるでしょうか。

そして聖句主義教会にはメノナイトなど他の教会もあります。
なのにそれをバプテスト化というのは自派の独りよがりでもあり不公平ともいえます。

がともあれそんななかで、米国のキリスト教界では聖句主義化が持続的に
進行しているわけです。


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