「聖書は宗教の教典で、宗教は危険だ」という抵抗もあるでしょう。
その思いの中身は「宗教は人を狂信に駆り立て、狂った行動に導いていく」ということでしょう。
確かに宗教はそうした事件を数多く引き起こしてきました。
だがよくみると、そのケースはみな教理主義でもって行う通常方式の宗教(conventional religion)
によるものです。
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キリスト教に限らず教理主義では信徒にプロの僧侶が教典の要約(教理)を与えます。
信徒には「考えさせないで」先に画一的な答えを与える。
だから結果的に信徒はその鵜呑みだけをすることになります。
前述のようにこの方式では、霊的感動が不足します。その不足を様々なイベント、儀式演出で補填します。
演出の贅を尽くしてこれを行う。ところがこれらがある信徒には単純な教えの刷り込み効果を発揮します。
その結果、与えられた単純な思想を絶対の真理と早々と盲信する信徒ができあがる。
狂信はそういう、与えられた単純な教えに精神世界を閉じ込められたときに発生する心理事象です。
これに至った人間が有害危険な行動をする。
それをみて人々は「宗教は非理性的で頭の悪い者がするもの」と思うことになるわけです。
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聖句主義方式はそれとは真逆なものです。
そこでは信ずるところも個々人の自由な聖句解読にゆだねられます。
プロの解読だけをほしがる人がもしいたなら、そういう姿勢を戒め、自分流の解読を蓄積するように勧める。
こうして「考える宗教」に導くのです。
よくみるとこれは学問科学的な方法です。前述のスモールグループ活動事例をみてもそれは明らかでしょう。
聖句吟味活動はむしろ学問活動に重なる点が多いのです。
違いといえば科学より認識対象の領域が広くなっている(霊界にまで及ぶ)ことくらいです。
個々人はスモールグループで自由に聖句吟味をし、解読には様々な道筋が成り立つことや、
世界には無限の認識課題があることを体験しつづけます。
すると単純な思想を真理だと安易に盲信する境地には行きたくても行かれなくなります。
聖句吟味スモールグループ活動では狂信に陥る可能性は存在しない。
のみならずそれは狂信への防波堤にもなるのです。
では、隷従気質の土壌を耕して自由思考土壌に改変する道はあるか。
これは途方に暮れるような難問なのですが、歴史がその答えを秘めていてくれました。
我々はそれを明るみに出してきたのでした。
隷従気質の土壌であっても、それを耕して自由思考土壌に改変する力を持つもの、それは聖句でした。
特にスモールグループで行う聖句吟味が自由思考精神を根底から醸成していく強い力を持っていました。
宗教の領域のものであろうがなかろうが、とにかく道があるのを知ることが出来た我々は幸いだと思います。
聖句の持つ比類なき意識土壌改変力はいろいろあげられます。
人は皆「自分はなぜ存在するか」「どう生きたらいいか」「死んだらどうなるのか」
「世界はどうなっているのか、どうなっていくか」などの疑問を抱いています。
聖句はこれら、人間誰しもが心の底に抱く疑問すべてに対応する内容を含んでいるので、
多くの人に対応できる汎用力とでもいうべき力を備えています。
また、歴史の部で見てきたように、真理に至る夢を与え、人の真理希求心を蘇生させる力もある。
さらに、物語を無限の時間・空間で展開しているので、人の意識空間を広げる力も持っています。
<聖句は全人類の資産>
聖句吟味と聞くと、我が国では当面いろんな抵抗が出るかもしれません。
間違いなく出る一つは「聖書は西洋の宗教の教典」であって日本には合わないという類の反論でしょう。
だがよくみるとそれは全くの誤認であることがわかります。
聖書は西洋人に固有の文化遺産ではない。
これは中東のイスラエルで出来たもので、西欧人はそれを伝えられた人々なのです。
旧約聖書、新約聖書ともにそうです。
かといってユダヤ人のものでもありません。
啓示メッセージの受け皿がイスラエル民族であったというだけのことで、メッセージ自体は
全人類に向けられたものなのです。
イエスの「地の果てまで宣べ伝えよ」という命令はそれを裏付けています。
聖書は人間すべてが活かすべくつくられた情報集、全人類に与えられた遺産なのです。
稲盛方式もトヨタ方式も、前回に見たように日本では普及しません。
ではどうすべきか?
答は「先に自由思考の精神土壌を耕し作る」ことです。
土壌が良ければこれら二方式のような強烈なものでなくても普及はなります。
また土壌から自由思考空間を求めるエネルギーが蒸発してくれば、
それに応じた様々な空間ができあがっていくでしょう。
<種まきのたとえ>
鍵が意識土壌にあることは、イエスの次の教えが示唆してくれています。
(「マタイによる福音書、13章3~23節)
彼は自分の言葉を種まきの種にたとえて、それが普及するための条件を次のように述べています。
(括弧内はその真意)
「種をまく人が種まきに出かけた。巻いている時道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。
(言葉を聞いても悟らないでいると、悪いものが来てその人の心に蒔かれたものを奪っていってしまう)」
「別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
しかし、日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
(言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、自分の内に根がないため、困難や迫害が起きるとすぐに捨ててしまう)」
「別の種はいばらの中に落ちたが、いばらが伸びてふさいでしまった。
(この世の心づかいと富の惑わしとが言葉の成長をふさいでしまう)」
「別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。
(ことばが悟る心に入ると何倍にも成長する)」
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イエスの言葉は、彼の地域・時代で立ち消えになることなく、今日全世界に広まっています。
それだけの「存在力」とでもいうべき力を備えているのでしょう。
右の聖句は、それが広まる前の時点で弟子たちに語られたものです。
イエスから出るような力ある言葉でさえ、普及するには良き土壌が必要になる。
この喩えは、土壌がそれほどに思想波及の決定力をもつことを示唆しているように思われます。
さすれば自由思考空間が普及するかどうかも、そういう精神土壌が培われているかどうかによって
決まっていくはず、となります。