ここで政教分離、信教自由がなった後の聖句主義者たちの行動を加味して考えてみましょう。
これまで見てきたように、彼らは植民地の独立を仕掛け、憲法制定に奔走し、
信教・思想・言論の自由制度を成就させるべく奮闘し続けて来ました。
その間彼らの行動は一貫して「政治的」でした。
ところが憲法修正が実現するやいなや、その行動は一変しています。
その豹変たるや絵のようで信じがたいほどです。
彼らは政治活動にぴたりと終止符を打ちました。
以後一転して福音の世界宣教、国内宣教、教育活動、社会活動に乗り出しました。
教会での日曜学校を創始しました。そこで子供に聖書と学問知識を教えました。
後に黒人の奴隷解放がなると、黒人の子供のための日曜学校も創始しました。
今日世界の教会に普及している日曜学校は彼らが考案し実施したものです。
彼らはさらに神学校や大学をたくさん創設しました。
その一方で年少者の長時間労働を阻止する運動なども行いました。
この突然の路線変換は何を意味するでしょうか。
それまでの活動史とあわせて考えてみましょう。
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まず国内外の福音宣教についてからみましょう。
海外の福音宣教に乗り出したのはなぜか。
基本的には彼らがイエスを信頼し、その「福音を地の果てまで宣べ伝えよ」という言葉を
信頼したからでしょう。
では国内宣教へのエネルギーを急増させたのはなぜか。
それも基本的に「地の果てまで宣べ伝えよ」に従ったからでしょうが、
この場合はもう一つの自覚があったと思われます。
彼らは任意連携空間が持続するには、国民に自由を貴重に思う精神があることが必要と
知っていました。
そしてその精神は聖句の自由吟味活動が最も効率的に培うことを知っていました。
それゆえに国内の福音宣教に一層のウエイトをかけたと思われるのです。
これまで見てきたように、管理階層組織の行動動機は動物的本能にその根がつながっています。
それは任意連携空間が法的に保護された社会においても変わりは無い。
放置すれば統治担当者は社会集団の安定化を本能的に求め、際限なく管理統制を進めようとし、
無自覚の内にも任意連携空間を侵蝕しようとしていきます。
これは動物本能に根ざしますからどうしょうもないのです。
だれが統治者をやってもそうなるのです。
だからこの力は他を顧慮することなく一直線に四六時中働き続けます。
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実はこれが日本においても平和の中で閉塞感が増してきている根底原因でもあるのですが、
それはまた機会があれば語ります。
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ともあれ管理階層空間は常時任意連携空間を侵蝕しようとする。
その防波堤として造られたのが政教分離憲法なのですが、防波堤を越える津波もあり得ます。
そしてそれをも防ぐ最終砦は人民の自由尊重精神なのです。
もし成員に自由尊重精神が希薄化すれば、それと反比例するように隷従心は強くなっていくでしょう。
そうなれば集団内に<命令=服従>的関係が雑草のように自然発生するでしょう。
それが現実の場で任意連携空間を浸食していくでしょう。
だから自由精神の増強努力は常時なされていなければならない。
そしてその増強には聖句吟味をする福音活動が最も有効であることをバイブリシストたちは
歴史を通して体験熟知していました。
彼らが政教分離がなると即座に国内の福音宣教に注力していったのは、
それもあってのことだと思われます。